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2017年7月14日

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キャリー・グレイシー中国編集長

「私は罪となるようなことを何もしていないが、しかし不満はない」。

劉暁波氏は2009年、法廷でこのように表明した。そしてそれから刑務所で過ごした長い8年の間、民主主義への思いを決して撤回しなかった。中国の指導者たちは、生きる劉氏を恐れたと同じくらい、死してなお、劉氏を恐れている。無理もないことだ。

中国共産党はかつては、信念の政党だった。党のために殉教する覚悟の同志は大勢いた。しかし権力を握ってから70年近くたった今の中国共産党は、硬直的でシニカルな権力者だ。憲法上の権利を求める人を投獄し、投獄した人たちについて国内で話題にすることさえ禁じ、経済力を対外的に駆使して外国政府に沈黙を強いる。習近平国家主席の下、中国はこうした抑圧を熱心に推進し、成功を収めてきた。そのなかにあって、劉暁波氏は例外的な、中国にとっての敗北だった。

劉氏が2010年のノーベル平和賞を受賞したことから、中国政府にとっての問題は始まった。平和賞受賞によって劉氏はただちに、信念のために投獄された世界的著名人の仲間入りをした。ネルソン・マンデラ氏、アウンサンスーチー氏、カール・フォン・オシエツキー氏といった人たちと、肩を並べるようになったのだ。

カール・フォン・オシエツキーを知らない人もいるだろうが、中国政府にとっては特に居心地の悪い比較対象だ。フォン・オシエツキーは1935年、ナチス・ドイツの強制収容所にいながらにしてノーベル平和賞を受賞した平和主義者だった。アドルフ・ヒトラーは、家族が代理人として授賞式に出席するのを許さなかった。

ノーベル平和賞に選ばれた時、劉氏は国家政権転覆扇動の罪で服役中だった。中国政府は、妻が代理として式典に出席することを認めず、それどころか劉霞氏を自宅軟禁にした。オスロで開かれた2010年の平和賞授賞式で、劉氏の代わりに壇上に上がったのは、空の椅子だった。そしてそれを機に、21世紀の中国と1930年代のドイツが比較されるようになったのだ。

厳しい検閲という点でも、劉氏とフォン・オシエツキー氏の状況は似通っている。ナチス・ドイツは1935年の平和賞受賞について、国内での言及を一切禁止した。劉氏の受賞に対する中国の姿勢も同じだ。中国政府はしばらく「空の椅子」という単語での検索をも禁じたほどだ。

つまり、劉氏は国際舞台で中国に恥をかかせたわけだが、本国でその名を知る中国人は少ない。がん治療のため国外に移ることが可能かをめぐり、中国の病院の言い分に外国人医師たちが反論したことも、香港では釈放を求めて徹夜の集会が行われていたことも、中国国内では徹底した検閲体制のために国民はほとんど何も知らされていなかった。自分たちの国で、ノーベル平和賞受賞者が死につつあったというのに。

選択的記憶喪失は中国の国家政策だ。そして劉氏の投獄から死亡に至るまで、政府は彼の記憶を消し去ろうと一生懸命だった。家族や友人たちがなかなか面会できないように、自宅から約600キロ離れた刑務所に収容した。妻の劉霞さんが置かれた自宅軟禁はあまりにも抑圧的で、彼女は次第に体と健康を害されていった。ノルウェーに対する中国の懲罰行動は苛烈で、今やノルウェー政府は中国の人権状況や劉氏のノーベル賞について言及を避けるほどだ。

しかし存命中と同様に死してなお、劉氏は消し去られたりしない。中国が国外に公表した重病人の映像は、明らかに国際社会に、劉氏が安らかに死を迎えられるよう自分たちは手を尽くしているのだと証明するためのものだった。しかし中国の意図とは裏腹に動画を通じて、劉氏は中国で踏みにじられてきた民主化運動の殉教者となった。そして1930年代ドイツが自国のノーベル平和賞受賞者をどう扱ったか、その先例との比較を招いた。

肝臓がんを患った劉氏は、末期になって初めて治療のための仮釈放が認められた。そして入院してもなお、厳しい監視下に置かれ、友人の多くは面会を許されなかった。今から80年近く前、カール・フォン・オシエツキーも看守に監視されながら病院で死んだ。彼の場合も、治療が許された時には、すでに手遅れだった。

ナチス・ドイツの人権状況やプロパガンダ政策と比較されるのは、中国にとって特に不本意なことだろう。中国は自分たちの一党独裁国家が、国際舞台で正当性を無事に獲得したと、ここしばらく思っていたので。今月初めに独ハンブルクで開かれた主要20カ国・地域首脳会議(G20サミット)では、劉氏の扱いについて公然と習主席に問いただす国家首脳は一人もいなかった。中国が対外的に力を拡大し、国内の取り締まりを強化するなか、中国の反政府活動家のために声を上げる人はあまりいない。

劉氏は最初から反体制活動家だったわけではない。旺盛に発言する前途有望な研究者で、パスポートも持っていた。1989年までは、恵まれた生活を送っていたのだ。しかしその年の、天安門広場での民主化運動が、分岐点となった。6月4日の虐殺を機に、中国共産党に背くのがいかに重い代償を伴うか、悲惨なほど明らかになった。

劉氏の同世代のほとんどの人が、そして後進の世代の人たちも、代償はあまりに重すぎると判断した。ほとんどの中国人は、命と自由と、体制に参加することを選んだ。

しかし、それとは別の道を選んだ人たちもおり、劉暁波氏はそのひとりだった。1989年の理想を終生守り続け、まずは中国出国の機会を放棄し、やがて繰り返し、自らの自由も放棄した。近年でも担当弁護士たちによると、罪を認めれば釈放してやるとどれだけ言われても、応じなかったのだという。

「地獄に行きたいなら、暗いと文句を言うな……」

劉氏はかつてこう書いた。そして公判中の陳述では、劉氏は自分を刑務所に入れた者たちに悪意は抱いていない、むしろ自分の個人的な体験を超越したいと述べた。「私に敵はいない」と題されたこの陳述は、ノーベル平和賞授賞式で、空の椅子の横で代読された。

そのような人を、中国政府が危険視したのは無理もない。他者を受け入れない支配政党にとって、信念をもったアウトサイダーは、自分たちを否定し侮辱する存在だ。交換条件や脅しで言いなりにできない相手は、許しがたい敵なのだ。

しかし、劉暁波氏の苦しみは終わった。座る者のいない空の椅子と同様、空になった病床の映像が、これからの中国を怯えさせる。

そして中国政府はこれからも、劉氏の後に続く人たちを脅し、迫害し、懲罰を与え続けるだろうが、このノーベル平和賞受賞者の記憶を消し去ることはできない。81年前のナチス・ドイツが、自らの恥を決して消すことができなかったのと同じように。

(英語記事 Liu Xiaobo: The man China couldn't erase

提供元:http://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-40604347

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