あの負けがあってこそ

2017年8月4日

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 「あの負けを」を振り返って思うことは、

 「もしあのときに出場していなかったら、その後の私はどうなっていたのかなと思います。もちろん今の私には繋がっていないかもしれません」

 「競技者としては、破門になっても、人間関係より自分の思いや目標、経験などを最優先に判断したことは良かったと思いますが、先生の道場にいながらでも、周囲の人間関係をマネジメントして、状況を変えて出場できていたら、もっと成績が上がっていたかもしれません。そういうことができる人のほうが良い成績を出せるはずですからね」

 「しがらみに負けたらいけませんが、しがらみさえコントロールできていたら面白かったかな。今なら、そんなトライをする道を選ぶと思います」

競技生活は苦難の連続

 岡本の競技生活は、その後も競技団体の分裂と統合によって翻弄される。

 2004年のアテネオリンピックは、JOCからの通達で国内に統一された団体がないという理由から当初出場権が認められなかった。それ以前のアジア大会も同じ理由で出場できていなかった。

 アルバイトで活動費を貯め、地道に練習を積み、国内では無敗の実力者でありながら、世界の表舞台に立てないとは、近年よく使われるアスリートファーストとは、ほど遠い環境にあったのだろう。

 「アジア大会にも出られなかったので覚悟はできていたんです。でも、応援してくれている人たちが署名活動をして、新聞やテレビでも取り上げてくださって、1週間で10万人もの署名が集まり、当時の小泉首相までが『出してあげたらいいじゃないか』と言ってくださいました」

 「いろいろなことが上手く回ってくれて、最後はJOCから個人出場という特例措置でオリンピックへの出場がかないました」

 競技とは無関係の軋轢に巻き込まれ、大舞台に向け準備に専念すべきアスリートが、急な帰国やテレビへの出演など、多忙を極めたことによる準備の遅れは取り戻すことができなかった。

 結果は1回戦敗退。引退も考えたが、世界チャンピオンへの夢を諦めきれず、2008年の北京オリンピックまで挑戦し続けた。

 「37歳という出場選手中最年長になっていました。金メダルを目指して16年間やってきて、結果取れませんでしたが、ここまでやらせてもらえたことに感謝していました」

 「当時の環境とか、競技団体の体制とか、私の意見は通らなかったのですが、選手個人としてはやり切った感があって、こんな幸せな人はいないよなと思っていました。テコンドーと出合って、今でも関わることができて、私にとっては最高の結果だったのです。多くの人に支えられ、本当に幸せな競技人生でした」

 2009年、岡本は国内では無敗のまま引退を迎えた。

 その後、ドリームテコンドースクールを開講し、NPO法人アスリートヘルスマネジメントの理事長を務め、現在は全日本テコンドー協会の副会長としてテコンドーの普及と人材育成に尽力している。

 また、2006年に韓国で洗礼を受け、伝道師としての生活も満ち足りていると語っている。

<岡本依子の主な戦績>
1993年全日本テコンドー選手権大会初優勝。
1994年アジア選手権2位。
1996年USオープン2位、アジア選手権2位。
1997年東アジア大会3位。
1998年アジア大会3位、アジア選手権3位。
1999年シドニー五輪選考会(アジア地区予選)2位。
2000年シドニーオリンピック女子67kg級で銅メダルを獲得。
2002年ワールドカップ2位。
2003年日米韓3カ国大会 金メダル。 アテネ五輪選考会(アジア地区予選)2位。
2004年アテネオリンピック出場。
2007年韓国オープン 金メダル。 北京五輪選考会(アジア地区予選)3位。
2008年北京オリンピック出場。
2009年現役引退。

  
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