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2017年8月31日

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クレア・ベイツ記者BBCワールドサービス

アンジェラ・キングさんはかつて暴力的な白人至上主義者だった。しかし拘置所での出会いがその後の彼女の人生を一変させた。

アンジェラ・キングさん(当時23歳)は、トラブルになると知りつつ、そのバーに向かった。ネオナチだったキングさんは、暴力的なスキンヘッド集団と一緒に、フロリダ州南部のバーに到着した。

ジーンズのウエストバンドに9ミリ拳銃を入れて、悠然とバーに入った。キングさんと仲間たちはコンバットブーツをはいて色付きの歯列矯正具をつけ、肌には人種差別的なタトゥーを彫っていた。

「全身にタトゥーを入れていた。胸にはバイキング、中指には鍵十字、下唇の内側には『ジーク・ハイル』、つまりヒトラーへの敬礼」

黒人やユダヤ人を憎悪し、同性愛者を激しく毛嫌いしていた。おまけに、ボーイフレンドも仲間の一人だった。そのためキングさんは、自分が実は同性愛者なのだと、決して打ち明けられなかった。

仲間たちと飲んでる内に、どんどん騒がしく攻撃的になった。飲み物を注文していた男性がキングさんのボーイフレンドに何か文句を言ったのをきっかけに、乱闘騒ぎになった。

「タトゥーのことを何か言われて、逆上したんだと思う。彼はすぐ手が出る人だったので」

キングさんと仲間の別の女性が、抗議した男性と一緒にいた女性をつかみ、トイレで殴る蹴るの暴力をふるった。警察に通報されたと聞いて、その場から逃げた。

「みんな興奮状態でそこら中を運転して回って、アメリカで人種戦争が起きたらどうなるのか話し始めました。自分たちと同じじゃない相手は痛めつけてもいいんだということになって、どこか強盗できる場所を探すことになった」

まずコンビニを狙ったが、ばかばかしいことに、誰が行くのかもめている最中に閉店してしまった。結局アダルトビデオ店を狙うことにした。ポルノは「白人にとって有益ではないから」という理由で。

「仲間の一人が店に入って、レジの金を盗む前に、店員をピストルで殴った」

店員はユダヤ人だった。

キングさんは3人きょうだいの一番上で、フロリダ州南部の厳しく保守的な家庭で育った。学費が高いバプテスト派の私立学校に通い、毎週カトリック教会のミサに参加した。

しかしキングさんには秘密があった。そのせいで混乱し、怒りにあふれ、敵対的な性格になった。

「とても小さいときから、自分は異常だと思っていた。同性の人にひかれていたので」

キングさんは自分の性的アイデンティティーを周りから隠した。

「知られてはいけないと分かっていた。母からは、『何があってもあなたを愛してる。でも黒人や女の人とは付き合っちゃだめよ』と言われていたので」

キングさんは家族の引っ越しを機に10歳から公立小学校に通うようになった。体重が増えて、自分に自信がなくなり、周りの生徒からいじめられた。言葉でのいじめが暴力を伴うようになると、もう耐えられなくなった。

「13歳のとき、女子がクラス全員の前で私のシャツを破った。スポーツブラがあらわになって、本当に屈辱的だった。そこで堪忍袋の緒が切れて、ずっとためこんでいた怒りが爆発した」

抵抗してやり返しているうちに、暴力や攻撃を通じて初めての感覚を経験した。この場をコントロールしているのは自分だという、力強さだ。それから間もなく、学校や近所の子供たちを力で支配するいじめっ子としての地位を確立した。

両親が離婚すると、キングさんと妹は母親のもとに残ったが、父親と暮らすことを選んだ弟とは離れ離れになった。自分の居場所を探そうと必死で、パンクロック好きの若者たちの仲間に入った。ネオナチズムに手を染め始めていた集団だった。

「若いスキンヘッドたちは、『フレッシュカット』と呼ばれていた。私の暴力性と怒りを、何も聞かずに受け入れてくれたので、仲間に入った」

グループは夜中に人種差別的なポスターをそこらじゅうに貼ったり、自分たちに賛成しない相手とは誰彼となくケンカして回った。

キングさんは正しい道を見つけたと思った。グループが掲げる考え方の多くは、これまで家庭で聞いてきた気軽な人種差別や偏見と合致していたからだ。

新たなアイデンティティを誇りに感じ、毎日見せつけるように行動に移していた。しかし、学校はほとんど何の対策もとらなかった。

地学の授業で月基地を作るという課題が出た時、キングさんは自分の作品に鍵十字の旗を掲げた。気づかれたのは、何週間も展示された後のことだった。

作品は展示から取り除かれたが、母親が娘の言論の自由だと抗議したため、「B」の成績をつけてもらった。両親はキングさんの考えに反対はせず、ただ「あからさまに見せてはいけない」と注意した。

キングさんは自分より年上のネオナチと一緒に行動するようになり、まだ10代の間に暴力的な白人至上主義グループに参加した。

「そこでは、奴隷船を持っていたのはユダヤ人で、白人を危機に陥れるためにアメリカに黒人を連れて来たんだと言われた。今なら、馬鹿げた話だと思えるが、十分な教育を受けていないとか、仲間に入れてもらおうとしている時なら、スポンジのように新しい事実を吸収してしまう」

キングさんは16歳で退学処分になり、様々なファストフード店で働くようになった。騒ぎを起こしすぎると母親から家を追い出され、車内や友人宅のソファで寝泊まりした。

キングさんがアダルトビデオ店での強盗に加わったのは、この時期だった。1998年のことだ。事件から間もなく、別のヘイトクライム(憎悪犯罪)で警察から指名手配されていたボーイフレンドとシカゴに逃亡したが、数週間後に逮捕され、マイアミの連邦拘置所に勾留された。

人種や文化、宗教や思想など生まれ育ちが違う人たちのすぐそばで生活するのは、これが初めてだった。

「みんな私がなぜそこにいるかを知っていたので、嫌な顔をされたり、嫌なことを言われたりした。拘置所で自分は、壁際に追い詰められて、戦って過ごすのだと思っていた」

しかしまったく予想していなかったことが起きた。友情の手が差し伸べられたのだ。まして、黒人女性から。

「休憩室で煙草を吸っていると、ジャマイカ人の女性が声をかけてきた。『ねえ、クリベッジ(トランプゲームの一種)のやりかた知ってる?』と」。

それが何かまったく知らなかったキングさんは、遊び方を教えてもらうことになった。

思いもよらない友情の始まりだった。その結果、人種差別を軸にした自分の信条体系が崩れていくのに、キングさんは気づいた。

最初の女性を皮切りに、ジャマイカ人女性たちの大きなグループが何かとキングさんの面倒を見るようになり、友達の輪はさらに広がった。中にはアメリカへの麻薬密輸で有罪となった女性も何人かいた。

「それまで有色人種の人を、ほとんど知らなかった。ここで知り合った女の人たちは、で私に難しい質問をしたけど、温かく接してくれた」

新しい友人たちに支えられ、キングさんは自分の過去の行動について責任を取り始めた。

拘置所での1年目に、キングさんは自分の事件について新聞が記事にするとこっそり教わった。新しい友人の一人に、自分の事件を大勢に知られるのがどれほど心配か打ち明けた。

「この友達は、朝食の準備手伝いを担当していたので、いつも朝早くに外に出ることができた。新聞記事が出た日、友人は新聞を盗んで、誰も読めないように隠してくれた。黒人女性が、私のためにそうしてくれた。ヘイトクライムで拘置所に入っていた、この無知な白人女性のために」

1999年に禁錮5年の刑が言い渡されたキングさんは、ギャング仲間について証言するため、郡の刑務所に移された。拘置所に戻ったとき、友人たちがフロリダ州タラハシーの刑務所に移送されたことを知った。

「私を支えてくれた仲間がいきなりいなくなって、打ちひしがれてしまった」

この間、拘置所には新しく収容される女性たちがやってきた。その中の一人、別のジャマイカ人女性は、たちまちキングさんを毛嫌いした。

「彼女は昔たちの悪いギャングにいたんだ、本当に最悪の奴なんだと聞かされた。ある日、そばを通りかかったら、『あんた、なんでそんな風になっちゃったの』といきなり聞いてきた。なので私は立ち止まって、自分にできる限り何もかも、正直に答えることにした」

2人はそれから話し始め、お互いまったく別々の世界で生まれ育ったにもかかわらず、外の世界で同じような経験をしてきたのだと気づいた。徐々に敵対心は薄れ、絆が生まれた。そして次第に、時がたつにつれ、自分たちの感情が友情を超えたものだと気づいた。

「お互い、恋に落ちたんだと気づいた。『まったく何がどうなって、こんなことに?』という感じだった」

「長いこと一緒に過ごして、たくさんの話をした。2人で同じ監房に入っていたこともある。かなり真剣な関係だったけれども、秘密にしておく必要があった」

2人とも、真剣な同性愛関係はこれが初めてだった。キングさんのガールフレンドは、キングさんより前にタラハシーの刑務所に送られた。まるで「拷問のように」感じたとキングさんは言う。

第三者を通じてお互いに手紙を書き送ったが、キングさんが同じ刑務所に移されて数カ月後に、関係はだんだんと冷めて終わりを迎えた。

2001年に釈放されたキングさんは、昔の自分には戻らないと決心した。また、他の同性愛者に積極的に会おうと、インターネットのチャットルームでいろいろな人と話し始めた。

「自分の過去を正直に話した。ゲイ・コミュニティーに受け入れられて、私は一人じゃないんだと気づいた」

キングさんは社会学と心理学を勉強するため、コミュニティー・カレッジに通った。自分の過激主義の経験が、一般的なものなのかを理解したかったのだ。

在学中に地元のホロコースト・センターに連絡を取り、2004年にはホロコースト生存者に自分のこれまでを打ち明けた。

「とても厳しかったけれども、話し終わると私の目をじっと見つめて、『あなたを許しますよ』と言ってくれた」

それ以来、キングさんはホロコースト・センターで訪問者に自分の体験を話している。そして2011年、国際会議に参加し、そこで他の元過激主義者に出会った。

「暴力的な過激主義に関わった過去から足を洗ったという、他の人たちに会えて嬉しかった。私だけじゃなかった」

「ライフ・アフター・ヘイト(憎んだ後の人生)」というブログで、自分たちの経験について書いている2人の米国人に会った。キングさんと2人は一緒に、極右集団からの離脱を支援する非営利団体を作ることにした。

白人至上主義者グループから抜けるのがいかに大変か、どういう難関を乗り越えなくてはならないか、キングさんは嫌と言うほど承知していた。自分自身も、1995年のオクラホマシティ連邦政府ビル爆破事件の後、グループから抜けようとしたことがある。

「子供たちががれきの下から引きずり出される、恐ろしい映像をテレビでたくさん見た。そのあと、犯人のティモシー・マクベイの考えは私とよく似ていると知ってしまった」

キングさんは当時、自宅軟禁状態に置かれていたが、電話を使うのも止めた。ある日、自分のアパートの外壁に複数の弾痕があるのを見つけた。過激主義の仲間は、自分たちの関わりをほのめかした。

「『考えが変わった』と言えば済むようなものじゃない。そういったグループから離れようとすると、深刻な反動、多くの場合は暴力による報復を受けることがある」

外部のサポートなしでは自分は抜けられなかったと思う。キングさんはそう感じている。そして今では、自分のその経験を生かして他人を助けている。

「過激主義グループにいる人たちは、自分のアイデンティティーのすべてが過激主義と一体化してしまっている。なので、生活をまるごとそっくり変えなくてはならない。考え方から、一緒にいる人たち、一生残るタトゥーをどうするかまで」

キングさんたちの非営利団体は、離脱を助ける「エグジットUSA」という介入プログラムを実施している。また、過激主義グループを抜けようとしている人の相談に乗ったり、情報提供をしている。

かつて過激主義者だった約60人が、互いを助け合っている。8月11日と12日にバージニア州シャーロッツビルで起きた衝突は、受け止めるのが特に大変だった。

「何か事件が起きると、それがきっかけで罪の意識や、恥ずかしくてたまらない思いが込み上げてくることもある」とキングさんは言う。

「私たちは今まで以上に忙しくて、気持ちだけでなんとか回している」

トランプ政権は今年6月、過激主義対策予算を縮小。「ライフ・アフター・ヘイト」も財政支援を縮小された。しかしキングさんは世界中からの個人的な寄付で不足分を賄っていると話す。

この間、キングさん自身の生活も良い方向で落ち着いてきた。両親との関係は改善し、自分がゲイだということを両親も受け入れたようだという。もっとも、両親が受け入れていようがいまいが、「構わない」とも。

さらに、少しずつ自分の過去の過ちを許そうとしている。

「昔の自分がどういう人間だったか、昔の自分が他の人や自分自身をどう傷つけてきたか。今でもかなり、まともな罪悪感を抱いている。でもこのような体験なしでは、今の仕事はできなかったというのも分かっている」

キングさんは、昔のタトゥーをレーザーでひとつひとつ消してもらっている。刑務所から出所した後に始めたことだ。薄くなった人種差別的なイメージの跡を、新しいボディアートで覆っていく作業だ。

現在キングさんの手首には素朴な言葉が彫られている。「愛こそが答え」と。

(英語記事 I was a neo-Nazi. Then I fell in love with a black woman

提供元:http://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-41091958

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