障害と共に生きる~社会で活躍するチャレンジド

2017年9月14日

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初瀬:その頃はシドニーオリンピック・パラリンピック(2000年)の前ですから、社会的な変化などを目の当たりにされたのでしょうか。

 

田中:オーストラリアに行って一番衝撃的だったのは、その当時からオリ・パラ一元化を進めていたことです。93年に差別禁止法が施行されて、95年にはすでに知的障害や脊髄損傷のあるアスリートへの指導書が出ていました。

 陸上競技連盟、バスケットボール連盟などが障害者の大会も運営していたのです。それを見て、私が求めていたのはこれだと思いました。高校生の頃から「それがあるべき姿なんだ」と思っていたのですが、そんなことを言ったら1990年代頃の日本では鼻で笑われていたころです。ところが、現実にオーストラリアで目にして確信するんです。私は間違っていなかったんだと。

 同時に、広く海外の事例とか、情報とかを忠実に伝える人が必要なんじゃないかと考えるようになって、35歳のときに大学院に進学することに決めました。

初瀬:私が会社を設立したのが30歳、自分の経験を振り返っても35歳でチャレンジできるってすごいです。一方で、読者の皆さんは意外に思うかもしれませんが、障害者は捨てるものが少ないだけに、怖いものがありません。独立する前もお金があったわけではないし、失敗しても失うものがない。障害者ってそういう人が多いのかもしれませんね。だからチャレンジができる。私はそう思っています。

 失敗してもどうせ、お金はないんだからいっしょでしょという感じです(笑)。

 そこで田中先生はイギリスに留学して、ラフバラ大学で世界のスポーツ研究をされて修士・博士課程を修了されるのですね。

田中:修士課程を終えて一時帰国して、博士課程は、中央大や東洋大などで非常勤講師をしながら、大学の休みに入るとイギリスに戻るような生活をしていました。その後2013年に博士課程の審査に合格し、2013年4月より現在の桐蔭横浜大学に勤務するようになりました。桐蔭横浜大学は、スポーツ学部として初めて身体障害のある人を専任教員として雇った大学であります。これは私の経験ですが、大学の教員、特にスポーツ学部の教員は、障害者では務まらないとも言われたこともありました。それを考えると、画期的なことであったと思います。

初瀬:中学までは高校から推薦で声をかけてもらえるほどの陸上競技の選手だったのに、足を切断して、それでもなお、スポーツにかかわり続ける人生というのは並大抵の覚悟ではできないでしょう。スポーツ学部の専任教員で障害の当事者というのはもしかすると田中先生くらいじゃないでしょうか。

 歩みを振り返ってきましたが、こうした田中先生だからこそ2020年に対しては思うところも強いのではないと思います。

ロンドン・パラリンピックの開催前後における変化

初瀬:ここからは2020年オリンピック・パラリンピック開催都市としての目指すべき姿をテーマにお話を進めてまいりましょう。

 

 ロンドン(2012)やリオ(2016)・パラリンピックの開催前後における有形無形の変化を振り返ってみたいのですが、ロンドン・パラリンピックは過去最高の大会だったと語られることが多く、私自身も出場した選手たちにインタビューしてみるとほとんど不満はないんですよ。

 イギリスの放送局・チェンネル4のパラリンピックCM「Meet the Superhumans」の影響は大きかったと言えます。

 個人的にはパラリンピックを真のスポーツに変えたのがロンドン大会で、それまでは障害者のリハビリの延長と認識されていたと思います。

田中:私としては、2000年のシドニー大会が大きな契機であると思っているんです。その前の98年に長野大会の影響もあって、日本のメディアもたくさんシドニーに入ってきました。世界的な流れでもシドニーの影響は大きいですね。一元化という視点でみるとシドニーが大きな意味を持っていると思います。2000年のシドニー大会前には、バスケットボール協会が全国大会の開催と共に知的障害者の全国大会を運営したり、テニス協会がAustralian Openなどの国際大会を開催していました。

 すべての障害者スポーツをいっしょにやるのは難しいかもしれませんが、こうした姿が自然であるべきだと思います。

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