東大教授 浜野保樹のメディア対談録

2010年10月14日

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浜野保樹 (はまの・やすき)

東京大学大学院新領域創成科学研究科教授

1951年生まれ。工学博士。コンテンツ産業や制作に関する研究開発に従事する。主な著書に『大系 黒澤明』(講談社)『偽りの民主主義』(角川書店)『表現のビジネス』(東京大学出版会)などがある。(財)黒澤明文化振興財団理事、文化庁メディア芸術祭運営委員ほか。

邦楽に軸足移したきっかけ

浜野保樹教授(以下「浜野」) ともかく、パワーをもたなきゃ好きなものも作れない、と。それで邦楽に移るきっかけはあったのですか。

石坂敬一会長

石坂敬一会長(以下「石坂」) きっかけはジョン・レノンです、やっぱり。

 ジョンがテロに遭ったときです。1980年12月8日、ジョン・レノンが射殺されちゃって。

 あぁこれで、レノンに対する自分の「バトラー(執事)」としての働きは…バトラーでなくて「ジャニター(小遣いさん)」でもいいやって思ってました、その ぐらいレノンには傾倒しておりましたが、それは終わったな、と。

 レノンの年取った姿は見たくなかった、実を言うと。

 あの頃だんだん、見たくないレノンが見え始めていた。70年代中ごろからですけど、「おれはハウス・ハズバンド(主夫)でいくんだ」なんて言い出したり ね。お料理と、お洗濯のレノン。これはちょっと、イメージ合わないなって思い出してた。

 そんなとき激変があったんで、ここで洋楽とさよならして、とね。

浜野 ただ、邦楽とはいっても石坂さんの場合はロックですよね、あくまでも。

クリエイション、コスモス・ファクトリー、
サディスティック・ミカ・バンド

石坂 当時は日本のロック、その揺籃期です。初期において、わたしは洋楽手掛けながら、クリエイションとか、フェリックス・パパラルディを入れたクリエイ ション(1976年)とか、コスモスファクトリーつくってたし、応援団としてはサディスティック・ミカ・バンドをやってたんです。
その1973、74、75年ぐらいが、日本のロック勃興期ですよ。

 主流になったのは、サディスティック・ミカ・バンドの中間派ロックと、フラワー・トラベリン・バンド、クリエイション、それから四人囃子のヘヴィなロック。それとはっぴいえんどなどの、詩を重要視した日本語ロックという、この3種類ですね、当時は。

 どれも、シングルヒットがない。今後日本のロックが伸びるにはシングルヒットが要るって話を、わたしと内田裕也さんと、加藤和彦(1947-2009)さんと考えて、とにかくサウンドはいいのができた、と。

 爆発しないのはシングルヒットがないからだ、なんて言い合ってたら、矢沢永吉さんが当たった。これはわたし、関係ないですが。ソニーで矢沢さんが当たった。「時間よ止まれ」(1978)です。

 それからキャロル系がどんどん当たって、「日本の」ロックと言わなくてもいい時代に80年代以降なっていきましたね。

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