オトナの教養 週末の一冊

2017年10月27日

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東嶋和子 (とうじま・わこ)

科学ジャーナリスト・筑波大学非常勤講師

元読売新聞科学部記者。フリーランスで環境・エネルギー、医療、生命科学、科学技術分野を中心に、科学と社会のかかわりを取材。主著に『名医が答える「55歳からの健康力」』(文藝春秋)、『人体再生に挑む』(講談社)など。新著に『水も過ぎれば毒になる 新・養生訓』(文春文庫)

 香川県善通寺市で講演した帰り、近くの満濃池(香川県まんのう町)へ足をのばした。

 『空海の風景』(司馬遼太郎著、中公文庫)の冒頭、「僧空海がうまれた讃岐のくに」を旅する司馬さんが満濃池の堰堤に立つからだ。

 <その堰堤の上に立つと、「池とはいはじ海原の八十嶋(やそしま)かけて見る心地せり」という古歌も大げさでなく、まわりに人家がないせいか、池の面にさざ波がたつのさえ気味わるいほどにしずかである。>

 <池の多いことは讃岐へ来るたれものおどろきのひとつであるにちがいない。古代国家は国家や社会の基礎が水稲で成立していた。農耕が昇華して宗教になったり、ときには強烈な正義になったりした。正義といえば非農耕民を農耕化させて田畑に定着させることと、池をうがつことが政治の正義であり、最大の事業でもあった。大和にも和泉にも池が多い。しかしそれにもまして讃岐には池が多い。>

 その多くを空海が掘ったというのは伝承としても、「空海が、讃岐の真野の地で荒れていた古池を築きなおして満濃池という、ほとんど湖ともいうべき当時の日本で最大の池をつくる工事の監督をしたことは、諸記録でうたがいを容れにくい」と、司馬さんは書く。「その満濃池が、いまも野をうるおしている」と。

 『空海の風景』には、唐への留学前は無名の僧だった空海が、いまや地方長官や国司に乞われ、朝廷から「築池使」(ちくちし)に任命されて故郷の池の築堤にあたる経緯が描かれている。

 私は、満濃池のアーチ式堰堤に立ち、予想以上の大きさに圧倒されつつ、1200年前の空海の姿を瞼に描いた。

「空海の偉業」後もたびたび決壊していた満濃池

『水の土木遺産: 水とともに生きた歴史を今に伝える』(若林高子,北原なつ子、鹿島出版会)

 この「日本最大のかんがい用ため池:満濃池」をはじめ、日本のおもな河川水系における先人たちの偉業と現存する施設や風土を紹介するのが、本書『水の土木遺産 水とともに生きた歴史を今に伝える』(若林高子、北原なつ子共著、鹿島出版会)である。

 独立行政法人水資源機構の広報誌に連載された「水の土木遺産」88か所を再構成したもので、治水、砂防、水利、水力発電、上下水道、文化財に関して、担当省庁や団体、企業などに取材し、現地を案内してもらっているのが特徴だ。

 満濃池の項を読んで驚いたのは、「空海の偉業」後も満濃池はたびたび決壊していたことだ。特に1184年の大洪水で決壊した後は、戦国時代の混乱もあって400年以上放置され、池の底に池内村という集落があったとか。

 1587年になって、讃岐国藩主が土木技術家・西嶋八兵衛を起用し、修復にあたらせた。「堰堤は渓谷の両岸を巧みに利用して、囲み堤のように扇形に湾曲したかたちで築かれるなど、八兵衛の土木技術の手腕を証明する数々の工夫が施されており、土木工学の立場から改めて高く評されている」という。

 満濃池は、以来約10年ごとに底樋を半分ずつ取り替えながら幕末まで220年間維持された。その後も大地震や大雨で壊れ、廃池になる危機に直面したが、私財を投じ、命がけで改修を行う人がいて、いまにいたる。

 目の前の風景は、空海の前にも後にもめんめんと池を守ってきた人びとの努力の賜物であったのだ。

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