2024年4月25日(木)

ACADEMIC ANIMAL 知的探求者たち

2010年11月16日

 大森先生は科学哲学なんていう狭い世界に留まるのではなく、まさに哲学をやっている人でした。先生の授業を受けて、「ああ、こうやって自分の頭で問題を考えていくってことでいいんだ!」と思いました。大森先生が自説を述べて、問題をどんどんぶつけてくるんです。答えてみろ、と言ってボンと投げてよこす。こちらがなにか答えると、執拗に反論してきて容赦なく叩きのめそうとする。

 たとえば、ある授業では、質と量を区別する明確な基準など実はない、誰か言える奴がいるか、と問われました。僕がなにか答えると、それはこうこうこういう理由で区別の基準にならん、と容赦なく却下される。じゃあこういう基準はどうですかと食い下がると、それはこういう理由で、とまた却下される。授業が終わって、家に帰ってからもあれこれあれこれ考えて、次の授業でまた自分の考えをぶつけてみて、また却下される。そんな繰り返しでした。結局全部先生につぶされましたけれども、しつこい奴がおるわい、とは思ってくれたみたいです。

●なかなかやるな、と一目置かれたわけですね。

——まあ、半目くらいじゃないかな。他の学生はそこまで執拗にはつっかからなかったけれども、僕の場合は、理系から学士入学で3年生に編入したこともあり、背水の陣という意識があったんだね。だから、そこまで食い下がったのかもしれません。

●一人で妄想するのが好きだったのが、大森先生に出会って人と議論するのも好きになったんでしょうか。

——哲学の問題を共有して人とともに考えるという姿勢は、この頃に初めてできたのかもしれない。問題に対して答えを見出そうと考えてみて、なかなか答えは出ないけれども、考えていればそれなりのことが出てくる、そういう哲学の手触りは、大森先生と出会って初めて知った。一種ロッククライミング的な、目の上の岩に手をかけてグッと力を入れて登っていく感触、それを続ければこの岩場は登っていけるんだという感触を得たのはこの頃。大森先生が明らかに自分よりいい答を出せば、自分より上が確かにあるということ。じゃあそこまで自分も行こう、と思うよね。

●理系の分野だと仮説を立ててから登っていったりもしますが、哲学ではまず直近の岩をつかんで登っていくもの?

——科学の場合は、実験や観察を通して進める実証性が真骨頂ですね。だけど哲学の場合は実証性というものが乏しい。自分の考えが正しいのか間違っているのかがどこでわかるのかといえば、一つには自分の中でその考えが整合しているかどうか。ほかの考えとちゃんと折り合って結びついていけるかどうかです。それから、実際にわからなくなっている問題に対して答えていく力があるかどうか。

●細かいところで少しは納得いかない部分があっても、トータルでおもしろければいいのでは?

——いや、それじゃだめだね。ディテールまでしっかり作らないとおもしろくないの。哲学っていうのは、大雑把にやろうと思ったらどんどん大雑把になっちゃう。


新着記事

»もっと見る