あの負けがあってこそ

2017年12月12日

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 「キャプテンとして17年ぶりに大崎電気が優勝して胴上げされ、日本リーグの得点ランキングでは10位以内に入り、その中でもリーグ1シュートの確率が高い『シュート率賞』をとって、心技体ともに充実して翌年タイのバンコクで開催された世界選手権アジア予選に臨みました」

 だが、順調なのも束の間、この遠征で「中東の笛」の洗礼を受けることになった。「中東の笛」とは、サッカーでも使われる言葉だが、国内ではハンドボールの北京オリンピック・アジア予選における中東諸国寄りの裁定が問題視されたときにメディアが取り上げ有名になった。

 東が経験したのはその前年の世界選手権アジア予選のことである。

 「あきらかにフェアなジャッジじゃありませんでした。どんなプレーも反則にされてしまうので、どう戦っても勝てないんです。このアジア予選を突破することに僕は人生を懸けていました」

 「でも、どれだけ練習を積んで、試合でどれだけ最高のパフォーマンスを発揮したとしても、審判を買収されてしまったら自分たちに勝ち目はありません。これじゃいくら努力しても意味がないと思うようになってしまったのです」

 アスリートの能力や努力を踏みにじられ、フェアプレーの精神を根底から否定されたような無力感に打ちひしがれた。東はハンドボールに絶望した。

 「それまでの挫折は乗り越えることができたのですが、自分が頑張っただけでは乗り越えられないことなのでお酒に逃げるようになりました。毎晩、遅くまで飲んで、翌朝会社に行って練習には出ました。キャプテンですからね。練習が終わって家に帰れば、『死にたい、死にたい、もういやだ』とよく家内に言っていました。唇は紫色でかさかさになり、背中も湿疹だらけになりました。そんな状態が何カ月か続いたときに、妻から子供ができたことを告げられるんです」

 「いつまで引きずっているの、悔しいのはわかるけど、長いよ。父親になるんだからね」

 そう言われてエコーの写真を見せられた。

 

 「見た瞬間ですよ、『あぁこのままじゃだめだ』と思ったんです。神様が立ち直るきっかけをくれたんです。神様からのプレゼントですよ。人生には説明のできないようなことがありますよね、あの時も助けてもらっているなと思いました」

 アップダウンの激しいまさに激動の2005年から2006年は東の人生にとってどのような意味があったのだろうか、という問いかけに、しばし言葉を選ぶように間を置いた。それまでの雄弁な語り口とは少し趣を変え、少年期のことを語り始めた。

 子どもの頃は運動が嫌いで苦手だったこと。中学でハンドボールに出会うも週に2回の練習しかなく、あとの時間は仲間とやんちゃばかり。輪をかけた高校時代のやんちゃぶりと恩師との出会い、そして高校日本代表。大学ではU20日本代表に選ばれ、大崎電気へ就職。その後、日本代表になり日本代表のキャプテンを務め、大崎電気でもキャプテンとして日本一を獲得したという流れである。

 文字数の関係で詳細にはできないが人間形成の過程を垣間見ることができる内容だった。

 「僕の目標は日本一になることでした。日本代表のキャプテンになったらそれ以上のものはないと思っていたんです。あとは下がるだけだという思いもあったのでしょう。オリンピックに出てメダルを獲得するというような具体的な目標を持てていなかったのです。行きたい、出たいという思いは強く持っていたのですが、出ることだけが目標ではオリンピックに出場することなんてできません。あのとき、もしも具体的な目標が世界一を目指していたら、大崎電気の日本一や、日本代表キャプテンはただの通過点でしかなくもっと先へ行けていたように思います。でも、当時の僕にはその先が見えていなかった。しっかり前は向いていたのですが思いが小さかったということです」

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