2024年4月20日(土)

古希バックパッカー海外放浪記

2018年2月18日

(2016.10.10~12.23 75日間 総費用21万7000円〈航空券含む〉)

ルーシーズ・ゲストハウスは大所帯

 11月18日。コタキナバルの警察署近くのルーシーズ・ゲストハウスにチェックイン。オーナーのルーシーが家族経営している小さなゲストハウスだ。居心地が良くて1カ月以上長逗留してしまった。

ルーシーズ・ゲストハウスの受付デスク。嫁のセージ(中央)とセージの妹のテル(右)

 ルーシーは1956年生まれの60歳。ルーシーと亡くなった旦那の間には長男エドウイン、次男ショーン、三男テオと3人息子がいる。長男は近くで仕事をしており、三男はドライバーをしている。次男は結婚してゲストハウスの経営を引き継いでいる。嫁のセージは25歳、2人の間には生後6カ月の長男シェーン(ルーシーの初孫)がいる。

ルーシー一家の夕食。左から次男ショーン、ショーンの嫁のセージ、ルーシー、三男のテオ、長男のエドウィン

 この一族が一緒に住んでいるので賑やかである。さらに女子アルバイトのジェイ21歳、セージの妹テル22歳も近くに住んでいて食事に来るので大所帯である。

ルーシー(60歳)とオジサン(64歳)は同世代

ルーシーのルーツは広東客家

 11月19日。朝食後ルーシーとおしゃべり。ルーシーはマレー語が母語であるが英会話も流暢だ。広東語も多少解する。ルーシーの家系はクリスチャン。ボルネオが英国領の時代に先祖が入信したので三代目のキリスト教徒という。

 ルーシーは中国系マレーシア人であるが、漢字は全く読み書きできない。一枚の旧い紙きれを持ってきた。「張玉梅」(チャン・ユイメイ)と書いてあった。ルーシーの中国名であり、母親が亡くなる前に遺言と一緒に残してくれたものだ。ルーシーに名前の意味と発音を教えると神妙に聞いていた。

嫁のセージとシェーン

 ルーシーの父方は張姓であり、母方は李姓でありともに広東出身の客家である。父親は1931年KK(コタキナバル)生まれ。長年KKで公共バスの運転手をしていた。名前はHenry Chong(張)Chi Fong。広東語のローマ字表記しか分からない。ルーシーの母親は1933年ボルネオのサンダカン生まれ。

 父方の祖父母については、祖父は早死にしたのでよく覚えていない。祖母はMaggie Leeと名乗って担ぎ屋(行商)をやっていた。おそらくマーガレット李が正式名であろう。

 他方で母方の祖父は1890年代広州で生まれ、サンダカンで中華料理のコック(厨師)をやっていた。李氏であるがフルネームは不詳。祖母は香港出身でLee Le Yong。

セージの妹のテルは22歳。高校卒業後郊外のショッピング・モールのファッションショップで働いている

お爺さんは子供の頃さらわれてボルネオに売られてきた

 驚いたことに母方の祖父は7歳の頃に広州の実家の近くで「坊や、飴をあげるよ」と言葉巧みに“人さらい”に騙されて誘拐された。奴隷として売り飛ばされて香港から密航船に乗せられてボルネオ島に着いたという。サンダカンの食堂に売られ小僧として働かせられて、18歳の頃にコックとして自立したという。

 1900年前後の広東は清朝末期で官吏は汚職に走り治安も乱れていた。清朝の棄民政策により中国南部では無数の貧民が苦力(クーリー)として米国やアジアに渡った。そのような社会情勢を背景に児童誘拐や女衒が跳梁跋扈していたようだ。ちなみに19世紀後半のボルネオの娼館で働く娼婦の出身国は中国が最多で、その次が日本であったという。

 ルーシーの祖父もそんな不幸な少年の一人であったのだ。しかもルーシーの聞いた話では、祖父は一度も広州の実家には戻らなかったという。「祖父は広州の実家が余りにも貧しいので実家に戻ってもどうせ歓迎されないと思っていたらしい。ボルネオで働いたほうがマシな人生が送れると考えたみたい」とルーシーは語った。

 誘拐されたのは彼の悲劇のほんの一部でしかなく、真の悲劇は“帰れない故郷”という現代からは想像できないほどの貧困であろう。


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