使えない上司・使えない部下

2018年3月13日

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吉田典史 (よしだ・のりふみ)

ジャーナリスト・記者・ライター

ジャーナリスト。1967年、岐阜県大垣市生まれ。2006 年から、フリー。
主に、人事・労務分野で取材・執筆・編集を続ける。『悶える職場』(光文社)、
震災死』『あの日、「負け組社員」になった…―他人事ではない“会社の落とし穴”の避け方・埋め方・逃れ方』(ダイヤモンド社)『封印された震災死』(世界文化社)など。

「あんな教育に従ったら、自分で考える力が身につかない」

磯村和人さん

 父は東京外国語大学ポルトガル・ブラジル科卒(当時)を卒業後、大手メーカーに勤務しましたが、半年ほどで退職したのです。満員電車に揺られ、出社することに疑問を感じていたようです。営業という仕事にもなじめなかったのかもしれません。

 20代半ばで地元・豊橋市内で英語塾を開設し、当初から多くの生徒に教えていました。中学校や高校で学ぶ英語の学習塾ではあるのですが、受験だけを意識した教え方はしていませんでした。英語を通じて教養を身につけることに重きを置いていました。当時としては珍しかったのでしょうが、映画やビデオなどを使い、英語に慣れ親しむことを重視していたのです。

 父がひとりで教えていたのに、小学4年生ぐらいから高校3年生まで60人ぐらいの生徒がいました。1教室は10~20人の生徒で、常に全教室が満員。塾を開設した直後から指導方法などが高く評価されていたようです。入塾希望者が多いので、入塾がなかなかできなかったのです。

 父は、生徒や保護者とよく話し込んでいました。特に午前中に保護者が頻繁に塾を訪れ、我が子の成績や学習方法、今後のことについて父に相談をしていました。父は、カウンセラーのような一面もあったのです。生徒の話も真剣に聞き、受け答えをしていました。子どもが好きだったのでしょう。恰好いい男でしたから、女子中学生や女子高校生にも人気があったみたいです。授業を終えると、父と話す機会を待っているようでした。大学生や社会人になった後も、塾に遊びに来る元生徒がいました。慕われていたのかもしれませんね。

 生徒一人ひとりと向かい合うことを大切にしていました。だから、管理教育と称して生徒を枠にはめ込む。それに従わない生徒を怒鳴る。頬をビンタしたりしてまで従わせる。そのような姿勢に憤りを覚えたのではないかな、と思います。「あんな教育に従ったら、自分で考える力が身につかない」と盛んに言っていました。今の時代、ビンタはさすがに許されないでしょう。

 兄や私は私服とはいえ、黒色のブレザーを着ていました。髪の毛を染めるわけでもなければ、校内暴力をしていたわけでもない。毎日、時間通りに通学し、校則も守っていました。成績もよかったし、教師に逆らうこともしていない。学校の秩序を乱すようなことはしていなかったと思います。

 私たちの行動に理解をしてくれる教師や生徒はいました。教師は学校内では私たちの側に立つことはできなかったようですが…。ある方から聞く限りでは、教師の中には私の兄がその後、東大を受験するときに試験に落ちることを願っている方がいたようです。事実ならば、残念ですね。

 私たちは、高校には進学はしませんでした。高校を否定していたわけではなく、中学校の管理教育に疑問を感じていたのです。中学校では、担任や学年主任、教頭、校長先生などが家に来ました。「制服を着ないと、内申書の点数が悪くなり、高校に進学できなくなりますよ」と父親たちに言っていたのです。父は話し合いには応じますが、一線を画したままでした。兄や私に制服を着るように、とは言いません。ブレない人でしたから…。

  
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