2024年4月25日(木)

オトナの教養 週末の一冊

2018年4月27日

「ドラマチックでも詩的でもない」ゴッホの死因

 最後のエピソードでは、オランダの画家フィンセント・ファン・ゴッホの死の謎に、銃創の専門家であるディ・マイオが挑む。123年後にディ・マイオが拾い集めた法医学的事実は、ゴッホを撃って逃げた人間の存在を指し示していた。にもかかわらず、美術界の一部が他殺説に抵抗を示すのは、「ドラマチックでも詩的でもないからだ」という。

 <我々はみな、ときに証拠などなくても、真実であると自ら信じることに肩入れする。神話が真実以上に魅力的であることもある。>

 <私が経験してきた多くのケースのように、人は法医学的事実よりも、自分の信じたいことを信じるものだ。フィンセントの実際の死よりも、彼の悲劇的な生のほうが重要なのだ。>

 本書で繰り返し著者が述べているように、人は、自分が見たいものを見るし、思いこみから結論に飛びつく。したがって、法医学的事実は、世論や遺族感情と相容れないことのほうが多い。

 それでも、いや、だからこそ、ドクター・ディ・マイオは世論や遺族感情への忖度をいっさい排し、あくまで医学的事実とだけ向き合って冷徹に結論を導き出す。それこそが死者への敬意であり、死者のために正当な裁きを下すことである、という。法医学者としての矜持が、実にすがすがしい。

 実話であるだけに、ディ・マイオが鳴り物入りで登場し、科学捜査で結論を出したにもかかわらず、釈然としない結末になるケースもある。

 司法取引によって、法医学的には無罪と思われる人物が刑罰を受けることを選んだり、陪審の評決に世論などが影響したり、といった結末には、米国の司法制度の矛盾や世論操作の問題について深く考えさせられる。

 <殺人で有罪判決を受けたジェイソン・ボールドウィンは、次のようなひと言で法制度のおかしさを指摘した。「俺たちが無実だと言ったときは終身刑になって、今度は有罪だと認めたら自由になれた」>

 原題のサブタイトル「A Life in Death」からも透けて見えるように、「死」から私たち自身の「生」のありようを問いかける、深いノンフィクションである。


  
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