2024年4月25日(木)

オトナの教養 週末の一冊

2018年5月18日

 東ドイツへ移り住んだ彼女は幼い頃から非常に勉学に優れた人物で、大学では物理学を選考し、卒業後は、東ベルリンの科学アカデミーで物理学者として働きます。もし西ドイツで育っていれば、本人は人と関わることが好きだったと証言していますから、ビジネスの世界で活躍したり医師などになっていた可能性もあります。

 彼女の東ドイツの体制に対する態度は、順応と批判の中間的なものでした。共産主義諸国の少年団であるピオネールに加盟していましたが、社会主義統一党(SED=事実上の共産党)の党員にはなりませんでした。そうした組織に加入しているかそうでないかで体制に忠実かそうでないかが判断されます。高校生のときには、反体制劇で危うく放校になりそうになったというエピソードもあります。当時の東ドイツの体制下では、人文科学などを専攻すると、どうしても共産主義のイデオロギーの枠から自由ではありません。そういう環境だったからこそ、物理学者になった面もあるのでしょう。

――物理学者から政治家へ転身するのは珍しいですね。どういったキッカケで政治家になったのでしょうか?

三好:1989年にベルリンの壁が崩壊します。すると彼女は市民運動「民主的出発(DA)」の活動に参加します。DAはその後、政党となり、彼女も物理学者からDAの職員として働き始め、同党では報道官を務めました。しかし、DAの活動が低迷すると、現在彼女が党首を務めるキリスト教民主同盟(CDU)と合併。彼女自身も入党します。そしてCDUの政治家としてのキャリアをスタートし、15年後には統一ドイツの首相の座に就きました。

――ここまでの話を聞くと非常に優秀な人ではないか、という印象を受けました。

三好:知能指数は非常に高い人なのでしょう。記憶力も大変いいし、理解力も抜群だと彼女の近くで仕事をした人は口をそろえます。ただ、性格的にまじめすぎる面があって、政治家としてはこれまで裏目に出ることもしばしばあったように思います。また彼女は敬虔なキリスト教徒でもあり、時に人権や原理を重要視する政治決定を行ってきました。

 その最たる例が、2015年から始まるヨーロッパの難民危機で、人道的理由から多くの難民や移民を無条件に受け入れたため、結果的に現在のドイツの分断を生み出しました。

 ただし、次第に治安など状況が悪化すると、北アフリカ諸国出身者の受け入れは厳しくするなど、実際は移民の受け入れを制限する方向に舵を切りました。その点では柔軟性を発揮したと思います。

――無条件に受け入れていては、テロを計画している人物でも、難民に紛れ入国することさえできたわけですね。

三好:もちろんその可能性はあります。犯罪者でも入国できてしまっていたのです。ドイツ国内には、移民コミュニティがあり、そのなかに隠れてしまえば見つけることは難しいのが実情です。

 こうしたメルケルの難民政策が世論を二分しました。どこから来たのか、本当に難民かさえもわからない人たちを無条件に受け入れることに関して多くの国民は批判的でした。キリスト教民主・社会同盟(CDU・CSU)の支持者の中にもメルケルの難民政策に批判的な人は多く、昨年の総選挙では、CDU・CSUから難民政策に批判的な右派政党、ドイツのための選択肢(AfD)へ約100万票が流れました。


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