2024年4月26日(金)

幕末の若きサムライが見た中国

2018年6月16日

貪欲に情報を得ようと手を尽くす日本の若侍

 上海到着から1週間ほどが過ぎた5月15日頃だと思われるが、この日から自由外出が許され「上海中ヲ徘徊」することができるようになった。先ず本屋に立ち寄り「新出ノ兵書」を手にした後、街をぶらつく。太平天国軍を防備するために厳重警戒する「英人ノ駐防ノ所」に出くわした。川辺では船で逃れて来た数多くの難民を目にして愕然とする。散策中も常に無数の好奇の目に囲まれる。街では流しの芸人、屋台の骨董屋、人相見やら易者なども商売に励むなど賑やかで、「其光景宛モ吾江戸ニ異ナラサルナリ」と。市井の生活ぶりは「吾江戸」とさほど違ってはいないようだ。

 某日、清国人宅を訪れて帰路に出会った英国人に酒に誘われ、「酒店」に立ち寄った。言葉は通じないが、「ジヤツハンジヤツハンジヤツハント呼テ」極めて親しく応対してくれた。かくて名倉は、どうやら西洋人は日本人を「ジヤツハン或はヤツハント呼フモノ」らしいと書き留める。

 名倉を始め若者たちは上海の内外を「徘徊」するのはもちろんだが、滞在中に多くの清国人との交流を重ねる。いったい誰が紹介したのか。それとも自ら進んで探し当てたのか。興味深い点だ。清国人と知り合った経緯についての詳細な記録が残されていないことを恨むが、ともかくも当時の清国を取り巻く内外情報――それは、とりもなおさずに日本を繞る国際情勢ということになるわけだ――を得ようと八方手を尽くしている様子が覗える。貪欲なまでに清国人の懷に飛び込んで行った。

 名倉が交流を重ねたうちの1人である陳汝欽が宿舎に訪ねてきたが、肝心の名倉は不在だった。そこで「同寓ノ士高杉晋作」が応対することになる。高杉が「兄何故尋名倉来」と筆談で問うと、「私は上海の駐防を担当し職務内容が同じ名倉と今朝、時事問題を論じたのですがすっかり意気投合しました。そこで、こうして訪ね来た次第です」と、陳が応える。すると高杉は「僕も時事問題を談ずることを好みますよ。さて姓名、ご住所を記しては下さらぬか」。すると陳は名前と住所をすらすらと記した後、「請問君姓名在貴邦所司何職(お名前とお国での役職は)」と問い返す。そこで高杉は、「僕姓源名春風通称高杉晋作讀書且好武事常欽慕貴邦奇士王守仁為人一個書生而已矣(姓は源で名は春風。通称は高杉晋作でござる。書を読み武事を好み、貴邦の奇士である王陽明を欽慕致し申す一介の書生に過ぎぬ)」と。すると陳が「妙極、妙極、妙極」と応じた。

 それはそうだろう。目の前に立った日本の若侍から、陽明学の創始者で、吉田松陰以下の多くの幕末の志士の五体に「忠義の志」を刻み付けた「貴邦奇士王守仁」こと王陽明(1472年~1529年)を「欽慕」する「一個書生」と自己紹介されたのだから、陳ならずともマトモな清国文人なら「妙極、妙極、妙極」と口にしたはず。この時、高杉は眦を決し力強く筆を動かしたものと想像したい。溢れんばかりの志を秘めた胸は、陳に正対していたはずだ。その時の高杉の胸の裡を推し量るに、不覚にも涙を流してしまいそうだ。

 その翌日である。名倉は高杉に使いを頼んで『兵要錄』を陳汝欽に届けている。どうやら名倉が日本から持参した本らしいが、出国前後の慌ただしさの中で日本に置き忘れてきた部分があり全冊が揃ってはいなかった。そこで名倉は遺憾ながら残欠がありますが、「伏乞高評大批(伏してご好評・批判を望みます)」と記した手紙を高杉に託している。

 某日、小舟に乗って黄江を下り、7年前に広東人が開設し、今はアメリカ人の所有になっているドックを視察した後、「浦東ノ造船場ニ至ル」も、その規模・構造は「吾長崎ノ製鉄所ニ比スレハ遥カニ劣レリ」と。造船所と製鉄所を比較するのも奇妙な話だが、当時の長崎に設けられた製鉄所の自慢を忘れなてはいない。

 幕府役人のお供で馬銓宅を訪問した時のことだ。大歓待を受け、「銓ト共ニ時事ヲ談ス」。余ほど長居をしたようで、気が付くと既に「斜日」。そこで宿舎に戻ることになるが、「本日雨甚シキヲ以テ道路泥濘深ク特ニ城裡ナレトモ僻地ニハ草第堆ク不潔ノ所アリテ歩履甚タ苦ム」と。「城裡ナレトモ僻地」とは街中の貧民街を指すようにも思われるが、ぬかるんだ道路に足を取られ、山のように積もったゴミに行く手を遮られる状態。今風にいうなら当時の上海の都市インフラ環境は劣悪の極みといった状態だったわけだ。

 街を「徘徊」している折に偶然に馬銓に出会った。ちょうど正午だったこともあり、昼食を御馳走になる。「銓余カ為ニ牛豚鶏肉等ノ盛饌ヲ設ケ此皆余カ口ニ適セサル処ナレトモ強テ箸ヲ下ㇱ且喰ヒ且語」った。淡白な味で育った日本人の名倉である。矢張り中国式の「牛豚鶏肉等ノ盛饌」には面食らい、箸の動きもぎこちなかったろう。肉料理を強引に喉の奥に押し込み眼を白黒させながら会話を続ける。「強テ箸ヲ下ㇱ且喰ヒ且語」の数語に名倉の苦衷が察せられ、何やら微笑ましくも思える。


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