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2011年4月22日

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片田敏孝 (かただ・としたか)

群馬大学大学院教授

群馬大学大学院教授・広域首都圏防災研究センター長。1960年岐阜県生まれ。豊橋技術科学大学大学院博士課程修了後、岐阜大学工学部土木工学科助手などを経て現職。釜石応援ふるさと大使も務める。

 ある小学1年生の男児は、地震発生時に自宅に1人でいたが、学校で教えられていた通り、避難所まで自力で避難した。また、小学6年生の男児は、2年生の弟と2人で自宅にいた。「逃げようよ」という弟をなだめ、自宅の3階まで上り難を逃れた。授業で見たVTRを思い出したからだ。既に自宅周辺は数十センチの水量で、大人でも歩行が困難になっており、自分たちではとても無理だと判断した。彼らは、自分たちの身を自ら守ったのである。

日本一津波に強い町で起きた想定外

 三陸地方の町には、津波に対する人々の恐れが形となっていた。江戸時代の記録にも津波の襲来は何度も現れる。近代以降では、明治29(1896)年、釜石沖を震源として東北太平洋沿岸を襲った明治三陸大津波では死者約2万2000人に上った。同じく釜石沖を震源とした昭和8(1933)年の昭和三陸大津波でも多くの死者を出し、昭和35(1960)年にはチリ地震津波に襲われた。

 それでも、自衛策をとりながら人々は三陸に住み続けた。例えば釜石市では、昭和53(1978)年から湾口の防波堤建設に着手し、30年かけて平成20(2008)年に、海底63メートル、水面上6メートル、幅が北に990メートルと南に670メートルの防波堤を完成させた。

 宮古市田老町にも、高さ10メートルもある日本一の防潮堤が造られた。昭和8年の大津波の直後から建設が始められたもので、昭和53(1978)年に総延長2433メートルで工事は完成し、「万里の長城」と呼ばれるようになった。

 だが、今回の津波はそれをも乗り越え、自治体が作成したハザードマップでは津波が到達しないと考えられていた避難所や高台地域も被害に遭った。まさに想定外の津波が来てしまったわけだ。今まで造ったものが無駄だったわけではないが、津波の浸入を食い止めることはできなかった。とはいえ、これまで以上の堤防を造ることは財政的に難しいし、海との関わりの深い生活を送ってきた住民は、海から隔絶される生活を望まないだろう。

 だからこそ、ハードを進化させるのではなく、災害という不測の事態に住民がいかに対処するかというソフト、「社会対応力」の強化が必要になる。これが、私のやってきた防災教育だ。

親や先生をいかに巻き込むか

 2003年に、私は三陸地方の住民の防災意識を調査した。全国的に見ればこのエリアの住民の津波に対する防災意識は高いとはいえ、私は危うさを感じた。それは、行政による災害対策や堤防などの社会資本が充実してくるほど、人間の意識が減退するという矛盾をはらんでいたからだった。

 住民はいつの間にか、津波警報が発令されても、結果として「到来した津波は数十センチ」という繰り返しに慣れてしまい、「本当に津波が来たときには、指示された避難所に行けばよい」と思う人が多くなり、さらには「それでも、堤防があるから大丈夫」という油断が生まれていた。

 私は、三陸地方の自治体に、共に防災教育に取り組むことを打診した。釜石市が手を挙げてくれた。04年のことだ。三陸地方には100年程度の周期で津波が定期的に来襲する。これは海溝型と呼ばれるプレートのためだ。過去の明治三陸大津波では、釜石町(当時)の人口6529人のうち、4041人が犠牲となっており、同じような事態はいつでも起きうるのだが、ここ最近は津波警報が発令されても市民の避難は低調で、釜石市は危機感を強めていた。そんな矢先に私の申し入れを快く受け入れてくれたのだ。

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