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2011年4月26日

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 奄美大島育ちの金井は、高校卒業後に東京に出た。染色とは無関係の仕事をしていたが、「東京は時間が進んでいくけれど、奄美は逆に立ち止まれる。その感覚でいろいろ考えてみたかった」と、25歳で帰郷。染色をやるとの強い意志があったわけではないが、紬ではなくアパレルに泥染めが使えないかと興味を持ったことで、職人たちを見ながら技術を吸収し、カジュアルウェアやスニーカーなどを染め始めていた。

 「アパレルは着物と違って、他の衣類に色が付きやすい、少々硬くなる傾向があるなど、メーカーやユーザーからのたくさんの注文に対応しないといけません。お土産屋さんのTシャツなら、ただ染めるだけですが、それではビジネスにならない。『大島の黒』をうたう以上、そこまでやらないといけないと思います」

写真:田渕睦深

 金井はアパレルメーカーを回って営業した。泥染めした品物を送っては「使い物にならない」と突き返され、同業者には「大島紬の価値を下げるようなことをするな」と非難されながらも、注文は少しずつ増えてきていた。有名デザイナーのYohji Yamamotoから「大島の黒を使えないか」と依頼が入ったりもした。紬とは違う分野における泥染めの可能性はいかばかりか、もっとやってみないと何とも言えないと、金井は思っていた。

 だからこそ、家族会議での「続けたい」という発言があったのだが、金井が「今、やめたらいけない」と感じたのは、ビジネスとしての可能性を追いたいというだけではなかった。

 「泥染めは、自然の力をもらう知恵で続いてきたことに納得したんです。災害で、泥田に赤土が流れ込んでしまいました。粒子がきめ細かい泥だから糸を傷つけないのに、赤土が混ざると染色できない。そしたら年配の人が『田んぼに栄養を』って教えてくれました。泥田の周りの田んぼで田芋(ターマン)を育てれば、土壌の状態が良くなり、元の状態に近くなるんです。こうやって乗り越えてきたから、今、僕らがやれている。必要なものって、周りに揃っているんだと思いました」

 泥田だけではない。テーチギも山にある分だけを使ってきた。自然のサイクルに身を委ね、その力をもらって泥染めは続いてきたのだ。

 もう一つ、金井が気づいたことがある。助け合うことの力だ。

 「預かっていた糸がダメになってしまった時に、織り元さんが『余裕ができてからでいいから』と支払いを待ってくれたり、被害のなかった同業者が動いて、工場を閉めるところの機材を紹介してくれたりしたんです」

 大島紬は、絣(かすり)模様をつくる締機(しめばた)、泥染め、手織りなど、多くの工程の分業によって1年近くをかけてつくられる。金井が「自分のところで色味がぶれると、柄が出にくくなるなど、他の工程に影響します」と言うように、周りを意識し合う感覚で成り立ってきたのかもしれない。

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