2024年4月25日(木)

幕末の若きサムライが見た中国

2018年6月20日

和議交渉の場でさえ行き交う「賄賂」

 名倉は「吾友王互甫」に「咸豊中天津役ノ轉末ヲ尋」ねている。

 「咸豊中天津役」とは、咸豊9(1859)年に起こった戦争で、天津沖に北上した英仏軍を清朝軍が砲撃したことからはじまった。じつは英仏軍は咸豊6(1856)年に清国に対し戦争を仕掛けた。これを第2次アヘン戦争とも、アロー号事件とも、アロー戦争とも呼ぶが、咸豊中天津役とは、その一環で、天津から上陸した英仏軍は咸豊10(1860)年に北京を占領し、清朝皇帝が愛でた円明園などを焼き払い、ついに北京条約を結ぶことで戦争は終結する。清朝は莫大な賠償金を求められると同時に、英国に対し南京条約での香港島に続き、その対岸の九龍を割譲させられる羽目になったのである。

 名倉に向って王は戦争の顛末を語る。英仏などの「諸虜」に対し自由な貿易を許さず、また北京での教会建設の要求を拒否したから戦争に発展し、結果として北京の一部が灰燼に帰してしまった。それはそれで判るのだが、これからの王の話が興味深い。じつは北京条約締結に際し、彼我双方に不正があったというのだ。王は「(アロー戦争の)和議ニ及ヒシハ彼我共々賄賂流入シテ事成リタル由ヲ語レリ」と。

 国家存亡の瀬戸際に立っているにもかかわらず、「彼我共々賄賂流入」し、結果として賄賂が和議を成立させたとは、なんとも不可解で底なしの恥知らず。鈍い刀槍、散逸に任せるままの古典、押し止めようなき烟毒、和議交渉の場で行き交う賄賂――もはや清国は救いようがない。

上海体験で生じた日本の内向き志向への疑い

 名倉は「余カ同行ノ士中牟田倉之助」の言動を伝えている。同行者中、特に名前を挙げて記しているのは高杉と中牟田の2人のみ。それだけ2人とは親しかったと見える。

 中牟田倉之助(天保8=1837年~大正5=1916年)とは、後の大日本帝国海軍大将で子爵。最終ポストは海軍軍令部長。金丸家から中牟田家の養子に。20歳の安政3(1856)年に佐賀藩主・鍋島直正の推薦で長崎海軍伝習所へ。三重津海軍所を経て戊辰戦争に。函館戦争に参加した後、慶應義塾で英学を学ぶ。おそらく三重津海軍所時代に千歳丸に乗船したものと思われる。中牟田も高杉も、千歳丸出航時の長崎で流行していた麻疹に罹ってしまった。だが外国行きという千載一遇の好機を逃すまいと、両人は無理を押して乗船する。

 高杉が英語の使い手と評している通り、中牟田は英語を使って上海在住のイギリス軍人と接触し、様々な情報の入手に努める。それらを名倉が書き記しているが、当時の日本にとっては余ほど貴重な情報であると同時に、その貴重な情報が「同行ノ士」の間で共有されていたということだろう。以下は『支那見聞録』に残る中牟田の言動である。

 中牟田がイギリスの「陸軍ノ将ステユーリイニ逢テ火器ノ談ニ及」んだ際、同将軍がイギリス陸軍では従来から使用していた「ミ子ー銃」を廃して「インホルトライフル」を採用することになった。だが陣形やら戦法に変化はないと語る一方で、「支那ニテハ現今ニモ古へノ銃砲ヲ用ヒ又弓ヲモ時アリテ之ヲ用ル」が、単なる飾りに過ぎないと笑っていたそうだ。

 中牟田の話から、名倉は次のように考えた。確かに「陸軍ノ将ステユーリイ」が語るように、銃器から軍艦に至るまで兵器全般は西洋の最新式を真似てもいいだろう。だが「気節ヲ失」ってはならない。戦争遂行上のハードである兵器は高性能なら西洋から輸入しても構わないが、戦闘を進めるうえで最も重要である「気節」や用兵法に関しては断固として西洋のマネをしてはならない。民族独自のそれがあってしかるべきだ、と。

 某日、中牟田が英軍砲台の見学結果を報告する。

 英軍は製作者に因んで「アルムストロング」と名付けられた「精巧ヲ極ム」る6門の「新奇ノ大砲」を上海に持ってきている。未だ外国には秘密になっているが、「英人等倉之助ノ為メニ其砲ノ放発手續キヲモ見セシメタ」。おそらく中牟田は最新式の大砲から速射される12ポンド砲弾の威力に胆を潰し、興奮してしゃべり続けたのだろう。

 おそらく名倉は、中牟田の考えに心を動かされたはずだ。そこで「本朝ノ人トテモ頑固」で西洋人を蔑み憎むあまりに「西虜」と呼び、彼らの製造した武器すらも嫌悪し蔑視する。そういった人は大抵が「義気アリテ死ヲ鴻毛ヨリ軽ンスル」。「義気」はあるが「死ヲ鴻毛ヨリ軽」いものと考えている。強がって西洋人を「西虜」などと口にしているが、その実は「本朝ニアリナカラ本朝ヲ尚フノ意モ無シ」と。つまりは日本人でありながら日本を尊ぶ心を持ち合わせてはいない。彼らは口舌の徒に類するもので頼りにはならない。やはり必要なのは「自ラ思慮」して、しかも「義気ヲ不失」の人々である。西洋人の「長ヲ取テ我ガ短ヲ補フベキ」ことは当たり前のことではないか――と綴る。

 名倉が「虜」について質問すると、友人の陳汝欽は「佛則模英則驕魯則泰」と応えている。「是亦吾輩所見ト相符セリ」と記しているが、名倉もまたフランス人は形式に奔り、イギリス人は傲慢で、ロシア人は泰然としていると見ていたのだろう。

 名倉は上海体験を機に、鎖国日本における内向き志向への疑いを持つ。かくして「虜」に学ぶべく、文久3(1863)年、池田筑後守を正使とする遣仏使節に加わってフランスに向うのであった。

  
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