幕末の若きサムライが見た中国

2018年7月10日

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樋泉克夫 (ひずみ・かつお)

愛知県立大学名誉教授

中央大学法学部、香港中文大学新亜研究所、中央大学大学院博士後期課程を経て外務省専門調査員として在タイ日本国大使館勤務。著書に『華僑コネクション』『京劇と中国人』『華僑烈々―大中華圏を動かす覇者たち―』(以上、新潮社刊)など。

[著書]

太平天国軍も英仏軍も「同じ穴のムジナ」

 日比野は多くの中国人と知合い筆談によって肝胆相照らす仲間を作っていったが、「蓋シ交接スルトコロノ學生武弁畫工醫生皆上海ノ者ニアラズ。〔中略〕我國人ノ滬上ニアルヲ傳聞シ、遥カニ戀ヒ來タルナリ。故ニ上陸ノ初メハ格外ノ人物ナキモ、今ハ益友ニ富ム」とし、かくて「モシ一年モ滯留セバ、マタ寸志ヲ達スルノ一端モアルベキニ」と呟くものの、「歸帆近日ニセマル。却ツテ歎ズベキカ」。

 太平天国によって引き起こされた社会の大混乱の中、多くの有為の若者が遠路をものともせず、上海にやって来て日本人を訪ねる。「交接」を重ねた「益友」の顔を思い浮かべ、せめて一年の上海滞在が許されれば、もっと多くの「益友」との「交接」から亡国の淵に喘ぐ清国の実態を学び、日本の新しい針路を指し示すことができるのに――こんな日比野の悔しさが伝わってくる。

 「モシ一年モ滯留セバ」との願いが叶い日比野の上海滞在が長期に及び、あるいは多くの友人知己を得て、アジア蚕食の牙を磨ぐ「洋夷」に対抗すべく共同防衛戦略の構築に取り組んでいたとしたら、その後のアジアで欧米列強が野放図に振舞うことは、歴史に見られたほどには簡単ではなかったに違いない。だが日本は維新に向い、清国は崩壊への道を辿った。であればこそ、その後の日中の関係を考えるうえでも、文久2年の千歳丸一行による一瞬の上海体験が幕末日本にもたらした意味は、決して小さくはなかったと思う。

 日比野らの上海滞在も終わりに近づいた6月も末になると、太平天国軍の敗色は濃厚になる。壊走しつつ略奪を繰り返す姿を「ソノ暴ニクムベシ」とする。一方、清国軍は英仏両国軍の支援を受け追撃態勢に移るのだが、「嗟、獸ヲ以テ獸ヲ驅ル」と、太平天国軍と英仏軍双方を「獸」に譬える。清国の屋台骨を揺るがせ、奪い尽くそうという点からすれば、太平天国軍も英仏軍も同じ穴のムジナと見做すしかなさそうだ。

 帰国近くなっても、いや近くなったからだろうか。熱心に市街を徘徊する。ある時、「人アリ余ノ袖ヲヒク」。その男に案内されるがままに市街を徘徊してみた。すると艶めかしい建物に。中を覗いてみた。「帷中ヲ窺フニ一美人鏡ニ對シテ粧フ」。そこで日比野は「コレ青樓ニアラズヤ」。すると「導者笑ツテ云フ、然リ」。どうやら親切ごかしの牛太郎だったようにも思える。そこで日比野はUターンだ。

 牛太郎に導かれての上海探索が続く。咽喉の渇きを覚えたので桃を買ってくるように頼む。「七ツニテ銅錢五十ナリ」。日比野が支払おうとすると、「姦商」は「價ヲ變ジテ銅錢百ト云フ」。そこで日比野は「ソノ狡猾貪婪ナルヲニクミ桃ヲ投ジテ去ル」ことにした。金持からカネをふんだくろうという商法を「狡猾貪婪」と憤る日比野は、やはり日本人だった。海を渡った異国でも一物一価が通用するという考えは、やはり捨て去るべきである。

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