ベストセラーで読むアメリカ

2018年7月12日

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 一滴の血液だけでは実際には正確に検査できないことを訴えてきた誠実な社員たちも退職を余儀なくされていく。エリザベスが新技術を開発したと対外的に喧伝していたのとは裏腹に、開発中の製品では基礎的な血液検査もできず、セラノスはシーメンスなど他のメーカーの血液検査装置を使って検査をしていた。しかも、十分な検査体制を整備せず間違いだらけの検査結果を利用者たちに伝えていた。

 たった一滴の血液だけで病気を検査する、という自分たちのビジョンを信じるあまり、それを否定する人たちの意見を全く寄せ付けなかった。自分たちのことをイノベーションで世界を変えるカリスマ経営者だと信じこんでいたのだろうか。もちろん、真に革新的なことを成し遂げるにはそれなりの信念がいるだろう。それでも、次の指摘のように現実と夢の区別がつかないようではまさに喜劇だ。

 Part of the problem was that Elizabeth and Sunny seemed unable, or unwilling, to distinguish between a prototype and a finished product.

 「問題のひとつは、エリザベスとサニーは、試作品と完成品の違いを理解できない、あるいは理解しようとしないことだった」

脚光を浴びることで崩壊が速まった

 シリコンバレーでは、これまでは夢でしかなかったことをテクノロジーの力で実現するというサクセストリーには事欠かない。その神話の磁力から逃れるのはなかなか難しい。スーパーマーケット・チェーンのセーフウェイもセラノスの虚像に取りつかれた大企業のひとつだった。店舗の一部を改装して顧客が気軽に血液検査を受けるコーナーを開設し、セラノスの製品を使う業務提携を結んでいた。計画は遅れに遅れ、セラノスとの提携を主導したセーフウェイのCEOは業績低迷の責任をとってついに退任させられる。それでも、セーフウェイは提携解消には消極的だったという。

 What if the Theranos technology did turn out to be game-changing? It might spend the next decade regretting passing up on it. The fear of missing out was a powerful deterrent.

 「もし、セラノスのテクノロジーが本当に物凄いものだとなったら、どうなる? セーフウェイは今後10年、それを見過ごしたことを後悔することになりかねない。チャンスを見逃すことになるかもしれないという恐れが、決断を鈍らせる大きな障害となった」

 シリコンバレーのスタートアップへの投資は、いま目の前にあるものへの投資ではなく、未来に大きな革新を起こすというまさに期待への投資だ。今の時点で具体的な成果がなくても、5年後、10年後に業界そのものの構造を変えてしまうイノベーションの芽があるかもしれない。だから、日本の企業も多額の資金をベンチャー企業に投じ始めている。将来への期待値が投資判断に影響するだけに目利きするのはかなり難しい。ましてや、セラノスのように、有名な投資家が株主に名を連ね、おまけに政財界の大物たちが取締役会にも名を連ねている場合、簡単に騙されてしまう経営者が出るのは想像に難くない。 

 セラノスがマスメディアで名声を築く過程では、セラノスの取締役だった元国務長官のジョージ・シュルツの果した役割が大きかった。シュルツは90歳を超える高齢にもかかわらず保守派の論客として一目おかれており、ウォールストリート・ジャーナルの論説委員会と太いパイプをもっていた。そのおかげで、ウォール紙にセラノスCEOであるエリザベス・ホームズのインタビュー記事が大きく掲載される。これがきっかけとなり2014年6月に、経済雑誌フォーチュンがエリザベスをカバーストーリーで取り上げ、エリザベスは一気に時代の寵児となる。新聞や雑誌などさまざまな媒体が競ってエリザベスを持ち上げテレビ出演も相次いだ。

 世間で脚光を浴びたことが逆に、セラノスの崩壊を速めたのは皮肉だ。いろいろな記事やインタビューのなかで、エリザベスが自社の技術の素晴らしさを訴える一方で、実証データや学術論文での裏付けなどが一切ないことに疑問を持つ専門家が出てきたのだ。そして、ウォールストリート・ジャーナルの記者である本書の筆者が本格的な調査へと乗り出す。元従業員やセラノスの血液検査サービスを利用して誤った検査結果で迷惑した開業医や患者たちに取材を重ね、セラノスの虚構をあばく記事を15年秋に報じるにいたる。重要な内部情報を記者に提供した元従業員の一人が実は、セラノスの取締役を務めるジョージ・シュルツの孫だったというのも驚きだ。

 記者が真相に迫るにつれて、セラノスの大物弁護士からの取材源への干渉も目立ち始める。大物弁護士はセラノスの株式を報酬として受け取っておりセラノスを守ることに必死だ。なんとか記事の掲載を止めようとするセラノスの弁護士がウォール紙のオフィスに来訪し、記者や編集幹部らと長時間の押し問答をするなど、報道にいたるまでの手に汗握る展開も読ませる。

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