幕末の若きサムライが見た中国

2018年7月26日

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樋泉克夫 (ひずみ・かつお)

愛知県立大学名誉教授

中央大学法学部、香港中文大学新亜研究所、中央大学大学院博士後期課程を経て外務省専門調査員として在タイ日本国大使館勤務。著書に『華僑コネクション』『京劇と中国人』『華僑烈々―大中華圏を動かす覇者たち―』(以上、新潮社刊)など。

[著書]

「日中友好」が成立したバーチャルの時代

 1862(文久2)年4月29日早暁、千歳丸は長崎を出港する。海上では台風に遭遇し、一行は激浪に苦しむ。長崎を出てから8日目に当たる5月6日の9時42分、前檣にオランダの、中檣最上部にイギリスの、後檣に日本の、それぞれの国旗を掲げた千歳丸は上海に到着し、友邦であるオランダの在上海領事館前に投錨した。

 その時の情景を中牟田は、「上海滯在之洋船百艘も可有之歟。唐船は一萬艘も可有之歟。誠に存外之振にて候事」と記す。「洋船百艘」はともかく、「唐船」の「一萬艘」は些か大袈裟が過ぎるとは思うが、「誠に存外之振にて候事」という表現から想像を遥かに超えた上海港の賑わいに度肝を抜かれた様子が覗える。当時の日本における“唯一の国際港”であった長崎も、天下の台所を誇る大阪も、ましてや将軍の御膝元である江戸も、やはり物の数ではなかったようだ。

 上陸後、直ちに幕吏は従者を従え上陸し、上海滞在中に世話になるオランダ領事館を表敬訪問する。

 千歳丸に戻ろうとすると、一行は清国人に取り巻かれジロジロと好奇の視線を浴びることになる。そこで中牟田は、丁髷に裃、腰の日本刀という一行の姿が「餘程珍ら敷覺候事」であるから取り囲まれたと考える。だが、実際は違っていた。

 じつは千歳丸の入港前に上海では、上海に逼る太平天国軍討伐の意を受けた支援の大部隊が日本からやってくる。その中には孫悟空のように「雲を駆る殺人マシーンの克原額」と韋駄天のように「1日に千里を走破できる広真子」が混じっているとの噂が流れていた。そこで中牟田ら千歳丸一行を援軍の先遣隊と思い込んだ上海の庶民は、克原額と広真子の2人を探していたらしい。

 いったい誰が思いついた噂なのかは不明だが、物見高さにかけては誰にも負けないばかりか、林語堂が『中国=文化と思想』(講談社学術文庫 1999年)で語るように、彼らは有り余る暇を潰す名人である。「あれが克原額なのか」「こっちが広真子なのか」などと口角泡を飛ばして暇潰しに興じていたとするなら、それはそれでバカバカしくもある。

 だが、その時から現在まで続く1世紀半ほどの日中関係の歴史からして、当時の人々が日本人を援軍――つまりはプラスのイメージで捉えていたと考えると、じつに不思議な思いに駆られる。その後、明治から大正・昭和を経て現在に至るまで、彼らが日本を「鬼子(悪鬼)」「小日本(クソッタレ)」と呼んで嫌悪することはあっても、援軍として迎えることはなかったはずだ。

 千歳丸の一行にしても上海に上陸して中国社会の現実に接触したことで、それまで抱いていたバーチャルな中国のイメージ――海を越えて渡来した書物、殊に儒教古典の字面から学んだ孔孟の国――が崩れ去ったわけだ。その時から現在に至るまで、日本人は“理想”と“現実”の2つの中国に翻弄され続けている。

 日中が接触することのなかった時代、互いが相手を好意的に捉えていたことになる。だとするなら接触しないのが理想ということになるのだが、そんな時代に戻れるわけもない。

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