幕末の若きサムライが見た中国

2018年7月26日

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樋泉克夫 (ひずみ・かつお)

愛知県立大学名誉教授

中央大学法学部、香港中文大学新亜研究所、中央大学大学院博士後期課程を経て外務省専門調査員として在タイ日本国大使館勤務。著書に『華僑コネクション』『京劇と中国人』『華僑烈々―大中華圏を動かす覇者たち―』(以上、新潮社刊)など。

[著書]

千歳丸一行が目にした「亡国への道」

 上海投錨翌日の5月7日、一行の動静は早くも上海の新聞紙面を飾った。

 翌8日、幕吏は従者を引き連れ、オランダとフランスの領事館職員に先導され「上海を預かる奉行」である道台の呉照を訪問し、上海入港の目的を述べた。もちろん従者であるからには、中牟田も高杉も日比野も名倉も峯も同道している。

 先ず幕吏は、(1)商人を帯同したのは、上海での貿易の可能性を探るため。(2)上海滞在中の便宜供与を願いたい。(3)千歳丸には石炭、人参、煎海鼠、乾鮑、干藻、昆布、塗物などを積んできたが、上海の貿易担当者に善処を願いたい――と申し出た。

 これに対し道台は、(1)要求はオランダ領事より聞いている。(2)上海の商人が貨幣鋳造用に銅を輸入するなど日本との間に長い通商関係はあるが、日本からの来航は初めてだ。(3)ゆえに、日清両国の間で通商条約が締結されるまでの間、オランダとの通商規約に準拠し、一切はオランダ領事に任せ、日本からの通商物資をオランダの品物として扱う――と返答している。

 中牟田は幕吏と道台との応答を書き残す。道台は先ずは幕吏の位階と職掌を知りたかった。次いで幕吏が上海滞在中に「市中其外散策、見物差支なきや」と尋ねると、問題なしとの答えだったが、「但」と注意を促す。その部分を現代風に翻訳してみると、「昨今、太平天国の賊軍が各所に出没し人を殺し、家を焼き払うなど乱暴狼藉が目に余る。そこで英仏両国の軍隊に防衛を依頼している次第で、郊外遠方の見物はなさらないほうが宜しかろう」となる。

 長江一帯を制圧した太平天国は清国(清朝)を打倒して新しい国を打ち立てることを掲げ、南京を都に定めた後、長江下流の上海を攻め落とすべく軍を進めた。これに対し清国は太平天国軍の攻勢を跳ね返し殲滅するような力をすでに失い、長かった満州族による治世も終幕に近づいていた。

 武力によって新国家建設を図ろうとする太平天国軍の攻勢は続く。これに対し、清国政府は外国(英仏)軍隊を迎え入れることで混乱を収拾し、太平天国軍を制圧することを狙った。このような他力本願な清国の姿は、中牟田には勤皇か佐幕か。攘夷か開国かに揺れ動く当時の日本と重なって見えたことだろう。

 上海滞在は中牟田らにとってまたとない学習の好機を与えた。であればこそ道台からの「遠路の徘徊は御無用」などという忠言は最初から「御無用」だったに違いない。上海の地で、幕末の若き侍たちの旺盛な好奇心は解き放たれる。なんでも見てやろう、である。

 ここで英仏両国軍に上海防衛を依頼する前後の事情を、簡単に振り返っておきたい。

 洪秀全が太平天国を名乗り反清の兵を挙げたのは1851年。曽国藩・李鴻章ら将軍麾下の清国軍を蹴散らし、1853年には南京に入城し長江以南を制圧した。英仏両国は1856年にアロー号事件を口実に戦端(「アロー戦争」、あるいは「第2次アヘン戦争」)を開き、広州を攻略した後、一気に北上して天津を陥し、千歳丸上海行きの2年前の1860年にはロシアも加えて北京条約を結ばせ、中国全土におけるフリーハンドに近い行動を取りうる権利を確保した。

 清国政府は英仏両国の力を借りて太平天国打破を目指したわけだが、逆に両国の専横を許す羽目に陥り、亡国への道を走りはじめる。

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