幕末の若きサムライが見た中国

2018年7月26日

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樋泉克夫 (ひずみ・かつお)

愛知県立大学名誉教授

中央大学法学部、香港中文大学新亜研究所、中央大学大学院博士後期課程を経て外務省専門調査員として在タイ日本国大使館勤務。著書に『華僑コネクション』『京劇と中国人』『華僑烈々―大中華圏を動かす覇者たち―』(以上、新潮社刊)など。

[著書]

「イギリスの策謀」に気づいた日本の若き侍

 上海滞在も1ヶ月ほどが過ぎた6月9日、上海市街から宿舎に戻る際、上海の城門閉鎖の門限に遅れてしまった。開門を要求するが、城門を守備するフランス兵は規則を盾に聞き入れようとしない。すったもんだの挙句、兵卒頭がやってきて日本人はフランス領事の客分だから開門せよと命じたことで、やっと通過できた。だが門の内外に屯していた多くの清国人は開門の要求を無視されてしまう。いわば日本人は‟準西洋人”としての扱いを受けたことになるが、この体験に対する中牟田の思いを現代風に翻訳してみると、

――上海の防備を西洋人に依頼したことから、自らの国土でありながら清国人は自由通行が許されない。太平天国に起因する混乱とはいえ、西洋人の力は強すぎる。「唐人」は惨めなものだ。ここからも「支那之衰微」を推し量ることができる。西洋人は北京に住むようになったとのことだが、いずれ近い将来、北京の城(まち)の防衛も西洋人に依頼することになろうかと考える――

 じつは納富介次郎は「或ヒトノ話」として、同じような経験を『上海雑記 草稿』に綴り、「嗚呼清國ノ衰弱コゝニ至ル、歎ズベキコトニアラズヤ」と慨嘆を洩らす。この「或ヒト」は、おそらく中牟田だろう。いずれにせよ国力は衰え、西洋人の横暴を前になす術もなく、ましてや自国の中ですら自由に往来することができなくなってしまった清国の現実に直面して、一歩油断したら、日本にも同じ災難が降りかかることを自覚したはずだ。

 ところで同室だった高杉晋作は『上海掩日録』に「上海之形勢」を漢文で綴っているので、これまた現代風に訳しておきたい。

――「支那人」は悉く外国人の使い走りとなり、英仏両国人が街を歩くと、「清人」は誰もが道を譲る。上海の地は「支那」に属しているはずなのに、実際は英仏両国の属地といってもいいほどだ。日本人としても心せずにはいられない。なぜなら、これは「支那」のことではないのだから――

 上海が直面している悲惨な現実から、高杉も中牟田と同じように「上海之形勢」に明日の日本が陥りかねない姿を思い浮かべたに違いない。

 すでに清国は清国でありながら、じつは清国ではない。自分の国でありながら、自分の国ではなくなってしまった隣国の姿を目の当たりにして、中牟田は清国に加担するイギリスの狙いを次のように推測してみた。

――太平天国はキリスト教を信じているとのことであり、西洋の武器を多用している。大砲なども西洋製だ。イギリス人はアメリカ人が供与しているというが、イギリス人が秘密裏に渡しているとも伝えられる。イギリスは表面的には清朝のために太平天国の攻撃を防禦するなどといってはいるが、内々に太平天国側に高性能兵器を供与するだけでなく、秘かにキリスト教を布教している。ということは、じつは太平天国によって清朝を敗北させ、清国を奪い取ろうという魂胆ではないか。天下の権を奪い取ってしまえば思いのままだ。これがイギリスの策謀だろう――

 おそらく中牟田は、清国における清朝と太平天国の対立と混乱に対処する英仏両国の振る舞いから、英仏両国の日本における策動に思いを巡らしたに違いない。勤皇か佐幕か、攘夷か開国か――終わりなき死闘が繰り返され、社会の混乱と動揺が止まないなら、その間隙に乗じた英仏両国が日本を属国化させないとも限らない。今日の清国を覆っている暗雲が明日の日本に及ばないなどとは、とても断言はできない。

 そこで中牟田は俄然、太平天国研究をはじめる。

 たとえば「ミューヘッド」と称するイギリス人から太平天国について書かれた4冊の本を借り、その翌日は「終日寫本」に努めている。その後も「徘徊」することなく10日間ほど宿舎に留まって「賊の書」を写した。中牟田は太平天国の軍制・官制・法規・首都建設などに関するものと思われる『太平軍目』『太平禮制』『太平條規』『建天京於金陵論』などの書名を記しているが、これらを購入したとも考えられる。ところで高杉晋作の『外情探索録 上海総論』に「中牟田所寫之書、天理要論、〇太平詔書、太平禮制、天命詔書、〇資政新篇、看鼻隨聞録」と記されているところから判断して、宿舎での同室が関心を抱くほどに、中牟田は太平天国研究に打ち込んだと思われる。

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