幕末の若きサムライが見た中国

2018年7月26日

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樋泉克夫 (ひずみ・かつお)

愛知県立大学名誉教授

中央大学法学部、香港中文大学新亜研究所、中央大学大学院博士後期課程を経て外務省専門調査員として在タイ日本国大使館勤務。著書に『華僑コネクション』『京劇と中国人』『華僑烈々―大中華圏を動かす覇者たち―』(以上、新潮社刊)など。

[著書]

イギリスの手の内を探ろうとするも……

 中牟田は英語が得意であったからか、イギリス、アメリカ、オランダ、ベルギー、ポルトガルなど上海在住の欧米人と精力的に接触を重ねている。なかでもジャーデン・マセソン商会と同じくアヘン貿易で財をなしたデント商会を2回訪ねているのが興味深い。両商会は開港場となった横浜に最初に支店を置き、手荒い商法で日本の業者を翻弄したことで知られる。

 デント商会を訪ねたのは、同社で働いていると長崎で聞いた尾張の漂流民の「乙(ヲト)」と面談したかったからだ。「乙」とは、峯潔が『航海日録』に記していたジョン・マシュー・オトソンこと尾張出身の漁師・音吉である。

 中牟田は「『乙(ヲト)』は漂流して後、上海に住めども、日本の恩義を忘れざる旨を嘗て長崎にて傳聞したりし故、面會して見たしと思ひ、訪問せり」と綴る。すでに長崎でも上海に在住する漂流・音吉が話題となっていたわけだ。

 だが、中牟田が音吉と言葉を交わすことは叶わなかった。前の月に、妻子を伴って上海を離れている。「普魯西亞(プロシャ)人」と結婚し、2人の間に子供は2男1女の3人。長男は8歳前後で、一家全員が西洋人の服装である――これがデント商会の説明だった。後日、中牟田が再びデント商会を訪ね音吉の行き先を問い質すと、シンガポールに行ったとの返事だった。音吉の弟を自称する人物を訪ねたものの、やはり真実を聞きだすことはできなかった。

 かりに中牟田が音吉と会えていたら、アヘン戦争に英国軍兵士として参戦した音吉から、アヘン戦争のみならず英国事情やらデント商会のアヘン商法の一端、さらには上海での交易の実態など多くの情報や知識を得ることができただろう。音吉のシンガポール行きが少し遅く、千歳丸の上海着が少し早かったら、と思うばかり。

当初の目論見は外れ、一行は帰国の途に

 中牟田の経歴を見ると、長崎海軍伝習所を経て佐賀藩海軍方助役。維新後は海軍に奉職し、草創期の海軍兵学校教育の基礎固めに尽力し日清戦争前には海軍軍令部長に。栴檀は双葉より芳しである。上海滞在中、航海術について熱心に学ぼうとしている。

 高杉は『上海掩留日録』に、宿舎に留まって中牟田と共に「航海有益之事」を論じた旨を記し、「運用術、航海術、蒸氣術、砲術、造船術」などの航海学全般を学びたいとの中牟田の念願を書き留めている。この時、中牟田は病床に在り、高杉は看病の傍ら筆録したことだろう。

 尊皇か佐幕か、攘夷か開国か。現在のように即時的に報道されることはなかったが、風雲急を告げる故国の情勢は遠く上海の地にも逐一伝わる。浮足立つ中牟田、高杉ら。一方の幕吏にしても当初の目論見は大外れ。日本から運んだ千歳丸積載の貨物は思うようには捌けない。長逗留するほどに出費は増すばかり。そうなったら責任が発生してしまう。だが責任は負いたくない。幕吏といえでも役人である。いずれの時代でも役人は同じような行動を執るものらしい。逡巡の末、上海出港を決定した。

 かくて再び荷物を積み入れ、外交儀礼に従って上海管轄の道台への挨拶も終えて千歳丸は上海を離れる。乗船以来の黄疸が快癒することなく、病臥したままで船に揺られ、中牟田は風雲急を告げる日本に戻っていった。

  
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