2024年4月23日(火)

チャイナ・ウォッチャーの視点

2011年5月19日

 勿論、その報道の質がどのようなものであったかについては議論の余地が大きい。上述のような中国特有の事情ゆえに、ただでさえセンセーショナルになりやすい災害報道が一層熾烈の度を加え、日本国内よりも中国国内において地震・津波・原発の三重苦による壊滅的被害や遺体の凄惨さが強調されたことにより (日本人の死生観からは信じられないことであるが、中国では様々な歴史的・文化的背景により、遺体をメディアに映すことはタブーではない)、在日中国人が日本で得られる情報よりも本国からの情報や親類の勧めをうけて一斉帰国したのは記憶に新しい。

 それでも、中国の一般庶民が震災を契機に、被災者はもとより日本の一般庶民の危機における振るまいを直接かつ濃厚に眼にしたことの意義は、強調してもし過ぎることはない。

「日本を鑑とせよ」が浸透し始めた中国

 従来、とりわけここ10数年来「愛国主義教育」のもと、日本人と言えば「軍国主義者の末裔」というにとどまらず、「鬼子」(人間の皮を被った妖怪というニュアンスがこもる)であるというステレオタイプ的描写が繰り返されてきた。その結果、日本人と接点を持たない多くの人々は、日本人=「鬼子」イメージと、日本製品・大衆文化がもたらす恩恵とのあいだで分裂した日本認識を持っていた。

 一方、「中国の現実=道徳心が崩壊し、人心は砂のようにバラバラ」という、あたかも孫文の時代以来変わらない自己認識は、市場経済の急激な発展の中で一層強まっている。温家宝首相も最近繰り返しそう主張して広く注目を集めているが、さらには日頃対日脅威・強硬論を唱える『環球時報』ですら、「日本は何故風水害などの自然災害からいち早く立ち直るのか? それは武士道の時代以来彼らに染みついた《集団主義》の成せる技であり、中国も日本に学ばなければならない」といった記事が載っていることは珍しくない。「中国=反日」という近年の日本国内での受け止めからみれば信じられないかも知れないが、「日本を鑑とせよ」という主張は、説明の根拠の適切さはさておき、それこそ余りにも一般的なものなのである。ネット上の「憤怒青年」(過去数年来の反日運動の担い手)が集う『強国論壇』に至っては、日本人を騙る投稿者が「日本人からみた中国人の欠点・中国社会の問題点」をあげつらい、それが余りにも的を射ているために拍手喝采となるという有様である。

中長期的に見れば日中関係にプラス

 このように中国の人々は、自国の発展が往々にしてバランスを欠き、余りにも多くの問題を引き起こしている現実に深い不安を抱いているからこそ、海を隔てて目の前にある日本という国について常に気にせずにはいられない。彼らは単純に「過去の日本軍国主義」に憤っているのではない。むしろ、「心から敬服すべき、あるいは悠久の大国である中国にとって侮り難い実力があることを認めざるを得ない日本とは、今後も隣国として直面し続けなければならず、その長所を積極的に採り入れなければならない。だからこそ、そのような日本が改めて軍国主義を顕わにして中国を侵略するならば、中国には勝ち目がない」と思い、過剰に反応するのである。したがって、中国の日本批判は現実の日本社会と必ずしも常に符合するわけではない。むしろ、彼らの脳裏で理想化または「妖魔」化された日本に向けられたものである。

 このことは、日本にとって不幸であるのみならず、他でもない中国自身の対外認識の質という点においても不幸である。したがって、この落差を埋めるためには、中国人が直接日本を眼にし、日本人の思考と行動を知る機会を少しでも増やすより他に道はない。勿論、日本に来る全ての中国人に透徹した視点を期待することは出来ないし、観光客の増加やメディアの過熱報道がそのまま文化的理解につながるとも思えず、むしろ短期的には観光地の環境悪化や偏見に基づく摩擦を引き起こすだろうが、長期的には彼らが日本を知る機会がないよりはある方が間違いなく良い。(このことは日本人の中国認識についても同様である。最近は経済、そして中国ナショナリズムの拡大による外交関係の悪化にばかり注目が集まり、複雑極まりないが同時に興趣をそそる中国の社会と文化への関心が低下しつつあるのは気になるところである)


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