幕末の若きサムライが見た中国

2018年8月3日

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樋泉克夫 (ひずみ・かつお)

愛知県立大学名誉教授

中央大学法学部、香港中文大学新亜研究所、中央大学大学院博士後期課程を経て外務省専門調査員として在タイ日本国大使館勤務。著書に『華僑コネクション』『京劇と中国人』『華僑烈々―大中華圏を動かす覇者たち―』(以上、新潮社刊)など。

[著書]

地理感覚のズレが日本に悲劇を招いた?

「徘徊」を続け観察を重ねた高杉は、「上海之形勢」について「支那人盡爲外國人之便役英法之人歩行街市、清人皆避傍讓道、實上海之地雖屬支那、謂英佛屬地、又可也」とした。

――「支那人」は悉く外国人の「便役(使いッパシリ)」であり、イギリス人やフランス人が街を歩けば、道路脇に避けて道を譲る。上海は「支那」に属しているとはいうものの、イギリスとフランスの「屬地」といっても過言ではない――

 また上海は「甞て英夷に奪はれし地」であり、「大英屬國と謂ふ而も好き譯なり」とも。1840年に勃発したアヘン戦争に勝利したイギリスは、清国に対して南部沿海に位置する上海・寧波・福州・厦門・広州の5つの主要港を開放させると共に、香港島の割譲を逼った。かくして1842年に結ばれた南京条約によって、イギリスは上海における諸特権を享受することとなる。「英夷に奪はれし地」「「大英屬國」とは、そのことを指す。イギリスに続くのがフランスであり、以後、列強が上海経由の交易を実現させ、清国の衰退に拍車が掛かることとなった。

 高杉は上海を「支那南邊の海隅僻地」と記しているが、南京条約で開港される以前を考えるなら「海隅僻地」といえないこともない。だが地理的に見るなら上海は「支那南邊」ではない。北のロシア国境から南のヴェトナム国境までの、国土の広さに較べ長いとはいえない海岸線だが、その海岸線の中央部に上海は位置している。高杉のみならず当時の日本では、どうやら一般的に上海は「支那南邊」と見做されていたようだが、それは誤りというべきだ。

 たとえば上海を「支那南邊の海隅僻地」とするなら、早くも唐代にインド・イスラム世界と海上交易で結ばれて以来、国際交易都市として栄えて来た広州は、どう表現すべきか。上海と広州の間に位置する福建の泉州や漳州も古代から海外との交易拠点だったことを考えれば、やはり上海は「支那南邊の海隅僻地」ではないだろう。あるいは当時の日本は、地理的に長江辺りを南限に中国を認識していた。いいかえるなら長江の南の広大な領域は、当時の日本人が想定する「支那」には含まれてはいなかったということか。

 地政学的に考えるなら、中国という世界は長江の南にも、内陸部深奥部のその先のユーラシア中央部にも、東南アジア大陸部にも陸続きで繋がっている。やや突飛な表現だが、“伸縮自在”といっていい。この地理感覚の違いやズレが、その後の日本の中国政策に陰に陽に影響を与え、結果として現在にまで続いているのではないか。

 たとえば日中戦争の際、当時の軍部中枢は東部の海岸線を封鎖すれば、南京は陥落し、蔣介石政権は白旗を挙げると考えたように思える。だが、蔣介石政権はさらに奥地の重慶にまで逃げ込んだ。しかも主要官庁から大学までも移転させて、である。そこでゼロ戦警護の一式陸攻で爆撃すれば、「戦時首都」としての重慶の機能はマヒし、蔣介石政権は日本軍の軍門に下ると想定した。だが蔣介石政権は持ち堪えた。さらに西に補給路を求めたからだ。アメリカのルーズベルト政権を中心とする連合国は援助物資をインド洋からビルマに陸揚げし、陸路で中国西南内陸部の中心である昆明を経由して重慶に届けた。援蔣ルートである。

 そこで日本軍は援蔣ルートを断つために、ビルマに派遣した部隊を雲南省の西端まで進めざるを得なかった。緒戦は勝利したものの、日本側の兵站機能は十全ではない。そのうえ昭和18(1943)年秋頃には、西南中国からビルマ、タイに広がる一帯の制空権は米空軍に奪われてしまう。かくて最前線の日本軍に待っていたのは死戦でしかなかった。

 上海に対する高杉の地政学的認識の欠陥から滇緬戦争(滇=雲南、滇=ビルマ)にまで話を進めるのは、些か強引に過ぎるとも思うが、少なくとも日本人の中国に対する地理的な常識や感覚を改める必要性を指摘しておきたい。国境を閉じていた毛沢東の時代ならまだしも、国境の外に向かってヒトもモノもカネも「走出去(飛び出)」す時代となったのだから。

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