2024年4月20日(土)

この熱き人々

2018年9月25日

 「何でもやりたいタイプなんです。ただ、インターナショナルスクールに通っていたんですが日本人は私1人で、韓国や中国の上級生が強烈な反日感情をぶつけてきたし、歴史の授業はもっと厳しかった。日本や日本人が怖くなったり、自分を日本人だと認めたくないようないわばアイデンティティークライシスで、自分が誰なのかわからなくなってました。すべてがその場だけのもので、それがベースになっている自分が怖いというか、どこにも帰属できていないような不安がありました」

 さらに当時、両親の間がうまくいかなくなっていて、家の中でも居場所がなくなっていた。仕事が忙しく家に帰らない父と、外国での孤独な日々に耐えられなくなっている母の間に挟まれた一人っ子。ある時から両親の問題に関与することをやめたと南谷は言う。外では日本人というアイデンティティーが揺らぎ、家では家族という単位も危うくなっている。しかも、授業はすべてパソコンを使って英語で行われ、人との時間よりパソコンに向かうほうが多い香港の学校では、友だちとの関係もうまく結べない。

 初めて山に登ったのはそんな頃だった。13歳。青少年団体の行事に参加しヴィクトリア・ピーク(太平山)に登った。平和の山という意味の名を持つ552メートルの山は、観光客はトラムで登って夜景を楽しむ場所であり、映画「慕情」の舞台にもなっている。

 「山は初めての経験で、山頂に立った時に香港の密集した街が足元に見えて、この場所からなら自分と自分の生きている世界が違う視点で捉えられるかもしれないと思いました。すごく楽しかったというのではないけれど、山のてっぺんってどこにも属さないニュートラルな場所だという印象を持ちました」

 ニュートラルな場所。どこにも属せない自分が安心できて、見失ってしまった自分と自分が生きるべき世界がつかめるかもしれない。山に登ることと山頂に立つことを真剣に求めた南谷は、香港中の山に登り始め、翌年にはネパールのアンナプルナ・ベースキャンプを訪れる旅に参加している。そこで遠くに聳(そび)えるエベレストを眺めた時、絶対にあの山に登る、山頂に立てば自分が誰なのかわかり、本当の自分になれると思ったのだという。

 そんな決意を密かに固めた頃、両親は離婚し、父は香港に残って母は日本に戻り、南谷は日本の高校に編入して学生会館のような施設での一人暮らしが始まった。

 自分の人生を自分の意志と選択で生きたい。自分でコントロールできる世界を生きるには、強くならなければならなかった。そのためには、さまざまな課題をクリアし命がけで前進する登山こそが自分に必要な経験であると信じての、必死のプロジェクトだったわけだ。


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