佐藤忠男の映画人国記

2011年6月20日

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 日本映画史上で私がいちばん好きなスター男優を数人あげるとすると、そのなかに必ず、佐分利信(さぶりしん・1909~82年)と森雅之(1911~73年)が入る。そしてこの二人はともに北海道出身である。佐分利信は夕張炭田の炭坑労働者の息子で、小学校を出ると上京。肉体労働をやりながら苦学した。そして俳優学校を出て映画俳優になった。はじめはそうした出身にふさわしく素朴で逞しい青年の役が多かったのが、いつのまにか、うわべはもっさりとしているが身についた教養と繊細な気くばりを感じさせる頼もしい男になり、渋くて風格のある日本的紳士の模範になった。小津安二郎(1903~63年)作品でも、「お茶漬の味」(1952年)や「彼岸花」(1958年)でいい味を見せている。

 他方、森雅之は父の有島武郎が札幌で大学教授をしていたときの子で、3歳のときに東京に移っているが、北海道には広大な農場を所有していた。理想主義者だった父がその土地を小作人たちに解放したり、また愛人と心中をとげるなどしているので、上流階級ではあるが精神的には厳しい少年時代、青年時代であったのではなかろうか。新劇俳優から映画スターになるが神経のこまかな、自分のワルさをよくわきまえたニヒルなダンディといった役では比類のない名演技を見せた。北海道との関連では「コタンの口笛」(1959年)の貧しいアイヌの労働者というような役も見事に演じていて、役柄の幅は驚くほど広い。森雅之の代表作は「浮雲」(1955年)だが、この名作で共演している高峰秀子(1924~2010年)もまた、北海道は函館の生まれである。森雅之どうよう幼くして東京に移り、たまたま蒲田撮影所で子役になって人気が出て、トントン拍子にスターになったが、じつは養母がすさまじいまでのステージママで彼女はこの養母とたくさんの家族のために、学校にゆかずにひたすら稼がなければならなかったのであるという。スターとしては明るくふるまいながら、そういう自分自身を冷静に見守る眼が養われ、やがて自他の心の底の動きへの洞察力を持った大女優となった。

 北海道は開拓地だから、よそからやってきた人、そしてよそへ出てゆく人という動きが大きい。そこで得た夢や失意を心の糧にすることができれば強い自立した自我も育つだろう。以上の3人のスターたちに共通するものがあるとすれば、苦労を精神の糧にすることのできた器量の大きさで、それが俳優としては、ただそこに現れるだけで見るほうがなんとなく安心していられる風格になった。

 宮本信子は小樽市の出身。若い頃から上手い女優だったが夫の伊丹十三(1933~97年)が監督をはじめて彼女を主役にして作った「お葬式」(1984年)でブレーク。ひきつづき「マルサの女」(1987年)でユーモラスでユニークな芸風を確立した。

 高橋惠子は釧路市の出身。小学生の頃に上京して中学卒業と同時にスカウトされて大映に入社している。肉体美が評判のアイドルで不良っぽい役が多かった。当時の名は関根恵子。高橋伴明監督と結婚して高橋惠子となり、以後は地道な演技派を目指しいまはすっかり立派な中流家庭の奥様役である。

 二本柳寛(1917~70年)は標茶町出身。戦前の新劇の劇団築地座で俳優になり、戦争中に満映で作られた映画でいま残っている珍しい作品である「私の鶯」(1943年)に出演している。戦後は大映のアクションものなどが多く、あまりパッとしなかったが、小津安二郎の名作「麦秋」(1951年)で原節子の相手役としてじつにいい味のある演技を見せた。小津作品が見続けられるかぎり、彼もいい俳優として記憶されるはずである。じつはもう1本、山本薩夫の「太陽のない街」(1954年)でも労働運動の頼もしいリーダーを演じていて素敵なのだ。

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