トップランナー

2011年6月20日

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 夜半に及ぶ素振りで荒川の家の畳は破れ、毎日張り替えられた。ある時、巨人の先輩選手が王の練習ぶりを見ようと道場を訪ねた。興味半分でやって来た先輩たちは、一心にバットを振る王を、最後は正座で見つめたという。

 「先輩方がどう感じたのかわかりませんが、やっぱり没入している世界というものがあります。よく『ゾーンに入る』と言う、普通の感覚じゃなくなることが人間には起こりえます。自分の持っているものが最大限に発揮される時で、練習ならいちばん上達する時です。努力しないと、触れることはできない世界だね」

写真:田渕睦深

 そこまで準備をして臨んでもスランプはある。その克服の道のりも、普段と変わらない。

 「野球から離れて気持ちを切り替える人もいるけど、それで次の日に打席に立っても、僕の場合は不安が消えません。不安なままでは寝られないでしょう。だから練習。バットを振るんです。まあ、気分転換が下手くそなんだね」

 荒川道場に通い始めたプロ入り4年目、王は本塁打と打点の2冠を獲った。並の人間ならここで気を緩めるところだが、王は自分で自分を追い込み続けた。苦行僧さながらにストイックだから特別だと感じるが、それは違う。

 「『打てた』『次は打てなかった』というのを経験していくと、うまくいく確率を上げたいと思うようになる。そうやって人は貪欲になるんじゃないかな。もっと打って、いい思いをしたいとなったら、練習は苦じゃなくなります。やっぱり、いいも悪いも経験しないと到達できない領域ってあると思うんですよ」

後悔を少なくできるように
自分で自分の尻をたたかないと。

 引退後、王は巨人の監督を5年務め、1995年からダイエー(現ソフトバンク)ホークスの指揮を執った。17年連続でBクラスに沈んでいたチームには、負けを悔しがらない空気が蔓延していた。プロ意識を植えつけようにも、自身の現役時代とのギャップに戸惑った。

 「『今年はもう無理だ』と思うのが20年近く続いていたら、勝つことの充実感を言っても難しいですよ。でもヒットを打った人って、うれしそうな顔をしているでしょう。監督もチームメイトもファンも家族も喜んでくれる、それを少しでも味わいたいのは人情です。だから、練習すればあの気持ちをもっと味わうことができる、そうやって勝つことは気分がいいものなんだと、気づかせるのが僕らの務めです」

 誰かに期待され、応える喜び。自分の能力を出し切り、結果がついてきた時の快感。それをもう一度と目覚めた時、自身をレベルアップさせたいというサイクルに足を踏み入れることができると王は言うのだ。王の場合は、さらに進んで「ミスを認めない」境地まで自らを昇華させたわけだが、選手にとっては尊敬すべき実績を残した雲の上の存在が、お前に成功してほしいという愛とともに、根気よく気づきを促してくれるのだから、これ以上の環境はない。王ホークスは99年と2003年に日本一に輝くなど、常に優勝争いをするチームに育った。

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