2024年4月20日(土)

この熱き人々

2018年10月25日

絞り柄が印象的なストール

 「元請けから仕事がきて最初の工程で、家の中にはいつも布がたくさんありました。下絵を摺った布を、この縫い方なら誰の家、この括りなら誰の家というように次の工程に渡していくんです。だから、父と一緒に絞り職人のおばあちゃんのところに布を持っていった記憶があります」

 1人の職人が1つの絞り技法を継承している。1反におよそ10万カ所を絞り、1カ月以上かかることもある。絞りが弱いと次の工程の染色の時に色が入って柄がぼやけてしまう。100歳の元気な双子で日本中の人気者だった、きんさん・ぎんさんも、絞りの仕事に携わっていたとか。小学生の頃から親の仕事を見よう見まねで覚えた80代、90代の女性が、熟練の技を代々守ってきたのである。

有松絞りの価値に気づく

 そんな絞りの町に生まれ、絞りに囲まれて育った長男の村瀬は、家業を継ごうという気は全くなく、4代目の父親も継げとは言わなかった。継いだところで生活ができるとは思わなかったからだろうと、村瀬は振り返る。

 「有松絞りが当たり前すぎてその価値に気づかなかったということもあるけど、自分の代で終わると思っている人が多くて、それもしょうがないかと受け入れてしまっている感じが漂っていた気がします」

 大人たちが先の展望を描けないまま高齢化が進む町で、家業を継がないことに迷いのなかった少年は何を目指そうとしていたのか。

 「中学時代、NHK名古屋放送局の『中学生日記』という番組があって、それに出演していたんです。けっこう面白くて漠然と役者の道もありかとも思ったんですが、高校時代にアートに興味を持ってからは美大に進みたいと思うようになりました」

 通っていた高校に美術の授業がなかったので、予備校の美術コースに通って東京藝術大学の彫刻科を目指した。が、現役での合格に失敗。1浪して自信を持って臨んだ2度目もまた不合格。

 「名古屋に帰る長距離バスの中で、それなら海外で勉強しようと決めたんです」

 海外留学などその時まで考えたこともなかったというが、なぜかいきなり海を飛び越えた。帰宅して両親に受験の失敗と外国行きの決心を伝え、1年間バイトで資金を貯めて翌年渡英。サリー美術大学(現UCA芸術大学)に入学したものの、1年後には資金が底を突き、授業料のかからないドイツ国立デュッセルドルフ芸術アカデミーで勉強を続けることに。そのドイツで有松に引き戻されることになるのだが、当然ながら本人もその後の運命は想像もしていなかったに違いない。


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