百年レストラン 「ひととき」より

2018年10月26日

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菊地武顕 (きくち・たけあき)

1962年、宮城県生まれ。編集者・記者。「E
mma」「女性自身」「週刊文春」「週刊朝日」と、25年以上にわたって週刊誌編集部で働く。著書に『あのメニューが生まれた店』(平凡社)。編書に「日本全国 おいしいものお取り寄せ」(文春文庫)。

 

 昭和4年(1929)9月に蒲郡(がまごおり)を訪れた秩父宮殿下は、当地の名旅館・常磐(ときわ)館に宿泊された。その際にうどんを召し上がったが、それは旅館が打ったものではなく、「やをよし」から取り寄せたものだった。

上・釜あげうどん814円(税別。以下同)。茹でたての手打ちうどんの弾力、宗田鰹のみを使用した出汁の香りを楽しめる 下・秩父宮殿下から下賜された煙草入れ。「御警衛記念」と記されており、本来は警備担当者への記念品だったのだろう

 「うちはずっと常磐館にうどんの白玉を配達していたんです。常磐館ではお客さんにお出ししたり、従業員の賄い食として利用していたようですね。秩父宮様のうどんを作る時には厨房に警備の人がたくさん来て、衛生面でいろいろ厳しい指導をいただいたそうです」

 と説明するのは、4代目店主だった荒島一廣(かずひろ)さんの妻・敏子さん。夫妻は既に子供達に店を譲ったが、今でもバリバリと働いている。敏子さんが続ける。

 「初代は、漁師をやっていた荒島梅吉(うめきち)さんといいます。梅吉さんは子供に恵まれなかったので、実の兄の子供の義二(よしじ)さんを養子に迎えました。梅吉さん・義二さん親子が店を開いたのが、明治36年(1903)。うどんだけではなく、魚や野菜、お菓子も売っていました。店名の『やをよし』は、『八百屋の義(よ)っちゃん』を短くして付けました。うどんは料理として出しただけでなく、受託加工というんでしょうか、お客さんが持ってきた小麦粉で打ち、できあがったら店の前に旗を立てて取りに来てもらったそうです」

 うどん作りはもっぱら義二氏が担当したという。料理の話題になると、今度は一廣さんが滔々(とうとう)と語り出した。

 「義二さんは研究熱心で随分と試行錯誤したようです。今もお世話になっている製粉会社の金(きん)トビ志賀(しが)さんが大正6年(1917)に創業する時、一緒に粉の研究をしました。出汁は鰹節のみで宗田鰹を自分で蒸して削っていました。つゆはメニューごとに地域特産の醤油をブレンドし使い分けています」

 昭和16年(1941)に義二氏が店主となると、魚・野菜・菓子の販売は止め、料理だけを出すようになった。戦後豊かになるにつれメニューを増やし、チキンライスなどの洋食やラーメンなどなんでも揃う大衆食堂として人気を博した。

昭和30年代の店舗。当時は洋食やラーメンも供していた

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