2024年4月20日(土)

パラアスリート~越えてきた壁の数だけ強くなれた

2018年10月9日

初の国際大会がパラリンピック

 競技としてのスキーに取り組み始めたのは中央大学に進学したあとのこと。

 大学生になって、少し時間ができたところで様々なスポーツに挑戦しようと横浜の障害者スポーツセンター(横浜ラポール)に通い、車椅子バスケットボールや車いすテニス、水泳などをやっていると「競技としてのスキーをやってみないか」と薦められた。

 「向こうっ気は強いほうなので、行けばどうにかなると思って、気軽に強化合宿に参加してしまいました。でも、私が思っていた、滑れるというのは、滑れるうちに入らないことを知って自信が根底から打ち砕かれました。私は大きな勘違いをしていたのです」

 と笑って大日方は話を続ける。

 「先輩たちが滑っていたコースを見てびっくりしました。ゆるやかなコースしか滑ったことのない私には白い崖に見えたのです。あらら、大変なところに来ちゃったわと思いました」

 それまでの大日方は楽しむためのスキーしか知らなかった。ストイックな競技の世界など知るはずもなく、驚きの連続だった。

 他の選手の邪魔をしないように、ひとりポツンとしていると、「ボランティアの大学生を一人付けるから、迂回コースを滑って練習していて」と言われ、ほぼ放任状態のまま二人で迂回コースを滑り、リフトの上から先輩たちの滑りを眺めた。

 「私もあんなふうにカッコよく滑れるようになりたい」

 負けず嫌いは、何度も転んで雪にまみれ、自分では起き上がれないような深みにはまったりしながらも、合宿の最終日には他の選手と同じ、白い崖に見えたコースをなんとか滑り降りられるようになっていた。

 「あれが私の競技スキーの原点なんです」と大日方は振り返る。

 「あのときも、できなかったことができるようになる喜びを感じました。競技としての厳しさを受け入れやすい年齢になっていたこともあるし、周りには目標となる先輩、支えてくれる人たちがいて、挑戦しやすい環境だったことも大きいですね。私はその時々で、いつも人に恵まれていたと思います」

 その合宿から2年後、大日方に大きなチャンスが巡ってきた。リレハンメル・パラリンピックの日本代表に選ばれたのである。

 なんと、初の国際大会がパラリンピックだったのである。

 「その4年後の98年に長野大会が決まったことによるものです。次世代を育てなければならないということで特別枠というか、次世代期待枠みたいなかたちで若手の選手が3名選ばれました。私はそのうちのひとりです」

 競技は滑降、スーパー大回転、大回転、回転という順に行われ、ゴールまで滑り切ったのは滑降のみ。スーパー大回転では「もっと速く滑りたい」という欲が出て、自分の力量を超えるスピードを出してコントロール不能に陥った。そしてネットを突き破ってコース外に飛び出した。救急車で搬送されたが大事には至らなかった。

 「長野大会がなければ私は選ばれていない選手です。結果は厳しいもので、滑降以外はすべてコースアウトでした」。

 日本のチェアスキーの第一人者にもこんな過去があったのだ。


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