佐藤忠男の映画人国記

2011年8月19日

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 岐阜県からはいま第一線の監督が何人も出ている。とくに岐阜市からは、古くは「心中天網島」(1969年)、近作では「スパイ・ゾルゲ」(2003年)まで、多くの評判になった作品を出している篠田正浩、江戸時代の地元の有名な一揆を格調高く描いた「郡上一揆」(2000年)の神山(こうやま)征二郎。青春映画の佳作「がんばっていきまっしょい」(1998年)の磯村一路(いつみち)が出ている。

 篠田正浩は映画を映画らしく、生き生きとよく弾んだものにする映像のつくりかたで傑出している。どんな種類の作品でも彼が演出すると登場人物の心の中の情念が画面に流れ出てきて、映像が艶々と光って見えてくるように感じたものである。「乾いた花」(1964年)でそれまで大根よばわりされることがあった池部良(1918~2010年)が、見違えるような感情の流れの美しさを見せたことは今では語り草になっている。私の好きな作品はほかに「瀬戸内少年野球団」(1984年)だ。

 神山征二郎の「郡上一揆」は、百姓一揆についての従来の誤った常識に異をとなえたことが一般に認められなかったせいか、あまり世評は高くなかったが、本当はもっと評価されていい作品である。百姓一揆というのは虐げられた貧しい百姓たちが窮鼠かえって猫を嚙むというように無茶苦茶に権力に歯向ったものだというふうに思われているが、実際には豊かで教養もある百姓たちが、領主が年貢についての百姓との約束を破ったことに抗議して行なったものだったということをきちんと描いていて、郷土の先輩たちを誇りとする作品なのである。

 ドキュメンタリーでは“水俣”シリーズなど社会派の第一人者である土本典昭監督(1928~2008年)が土岐郡(現土岐市)、「ニッポン国古屋敷村」(1982年)などの小川紳介監督(1935~92年)が現在の瑞浪市である。土本典昭は水俣病の問題を広く世に知らせた名作「水俣-患者さんとその世界」を1971年に発表してから、生涯このテーマと取り組みつづけ、10本以上も長篇を作って忘れやすい世間に問題を提起しつづけた。ひとつの問題にいつまでもこだわりつづけるというこの精神を受け継いだのが岩波映画で土本典昭の後輩だった小川紳介である。彼は三里塚の空港反対闘争を現地に何年も住み込んで撮り、そこで知った農民の精神を掘り下げようとして山形県の田舎にまた長年住み込んで撮影した。土本典昭と小川紳介という2人の岐阜県人によって、日本のドキュメンタリーは大きく前進した。

 小川紳介は代表作の「1000年刻みの日時計 牧野村物語」(1987年)を山形県上山(かみのやま)にプロダクションの本拠を置いて長い年月をかけて作ったが、このとき山形の地元の文化人、文化活動家たちと親しくなり、この人たちの力によって山形国際ドキュメンタリー映画祭が始まった。今年この映画祭はすぐれた文化的業績をあげたことで団体として川喜多かしこ映画賞を受賞したが、この映画祭の目ざましい仕事のひとつは、韓国や中国など、従来社会批判的なドキュメンタリーが殆んどなかったアジアの国々の若い映画人たちに作品発表の場を提供したことである。長期取材という小川プロダクションの方法はこうしてアジアに影響を与えた。

 俳優では田中邦衛が土岐郡土岐津町(現土岐市)の出身である。とぼけたような口調でどんな役でも面白くしてしまう。古いところでは岩田祐吉(1887~1980年)が安八郡大垣町(現大垣市)の出身で大正時代の松竹蒲田撮影所の「船頭小唄」(1923年)などのメロドラマで二枚目として活躍した。歌手で映画にも出ていた野口五郎が美濃市の出身である。

「アンダルシア 女神の報復」 ©2011 フジテレビジョン/東宝/電通/ポニーキャニオン/日本映画衛星放送/アイ・エヌ・ピー/FNS27社

 女優では松原智恵子が揖斐郡宮地村(現池田町)の生まれである。ただし戦争中の疎開でそこに生まれたので、すぐ名古屋に移った。1960年代の日活のアクションものや純愛ものにたくさん出演している。

 近年メキメキと売り出してきた伊藤英明は岐阜市出身。モデルから映画に進出する。海難事故の人命救助で活躍する海上保安官役の「海猿」シリーズでヒーローになった。「アンダルシア 女神の報復」(2011年)では海外で活躍する刑事役で格好よくキメている。 (次回は埼玉県)


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