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2018年11月23日

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ジェイン・コービン、BBCパノラマ

今年3月に英南部ソールズベリーで起きたロシアの元スパイ親子の毒殺未遂事件で、現場に最初に駆けつけたニック・ベイリー刑事巡査部長(38)が、有毒の神経剤「ノビチョク」の汚染によって家や所持品などを全て失ったと明らかにした。

事件後初のインタビューでベイリー刑事巡査部長はBBCのドキュメンタリー番組「パノラマ」に対し、「子供たちが持っていたもの全てを失くした。車も、何もかも失くした」と語った。

英国の情報機関、軍事情報活動第6部(MI6)に機密を提供していたロシアの元スパイ、セルゲイ・スクリパリ氏(66)と娘のユリアさん(33)は3月4日、ノビチョクを浴びて一時は意識不明になった。2人は命を取りとめたものの、ロシアと直接関わりのないドーン・スタージェス氏(44)はノビチョクを浴びた後7月に病院で亡くなった。

ベイリー刑事巡査部長は、スクリパリ氏の自宅でノビチョクに触れた。ノビチョクは、玄関のドアノブに吹き付けられていた。

その日の勤務後、ベイリー氏は知らずに自宅を汚染してしまった。ベイリー氏とその家族は以降、家に戻ることができていない。

ノビチョクは香水のボトルにつめられており、事件後にごみ箱から発見された。このボトルから神経剤を手首に吹き付けてスタージェス氏は亡くなった。

捜査当局によると、このボトルには何千人も殺せる量のノビチョクが入っていたという。

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事件当夜、ベイリー刑事巡査部長と同僚2人は町外れの閑静な住宅地にあるスクリパリ氏の自宅に派遣された。

全身を覆う科学捜査用の防護服を身につけた3人の任務は、他の被害者がいないか確かめることだった。

この派遣がベイリー刑事巡査部長の人生を一変させることになるとは、3人は思いもしなかった。スクリパリ氏の自宅を訪れた数時間後、ベイリー氏は不調を感じ始めた。

「目がちくちく痛くなり、汗まみれになった。暑いと思った」。2児の父親のベイリー氏は当時の様子をそう話した。「その時は、疲れとストレスからだと思った」。

2日経っても調子が非常に悪く、ベイリー氏は病院に担ぎ込まれた。

「生きた心地がせず、混乱した。何が起きているのかわからず、本当に、本当に怖かった」とベイリー氏は語った。

刑事巡査部長はソールズベリー地域病院に入院した。病院では医師らが、ベイリー氏の体にある毒に有効な薬の正しい組み合わせの発見を目指した。

同じ頃、ポートン・ダウンに近い英国防省国防科学技術研究所の科学者たちは、ベイリー氏やスクリパリ氏親子に使われた毒物を特定するため昼夜を問わず働いていた。

研究者らが、毒物が神経剤ノビチョクだと明らかにした時は「開いた口がふさがらなくなるほど驚いた」と、化学物質による危険に対応するチームの主任科学者、「ティム」教授は語った。

「ティム」教授は、「ノビチョクは知られている中で最も危険な物質の1つだ。非常に低い濃度でも人を危険に陥らせるという、とても独特な特徴を持つ」と付け加えた。

「これで人が死ぬこともある」

欧州内での攻撃に神経剤が使われたのは、初めてのことだった。

医師らはベイリー刑事巡査部長に、使われたのはノビチョクだと明かさなければならなかった。

「未知の恐怖だった。身体組織内にあるにはあまりに危険なものなので、他の2人がどんな様子かとか、ノビチョクに触れて2人がどんなひどい状態かを知っていたから、ぼうぜんとした」とベイリー氏は話した。

ソールズベリー病院の救急救命医は、これまでに取り組んだことのない事態に直面した。ダンカン・マレー医師によると、ノビチョクの被害を受けた3人が全員死亡する可能性は、「非常に現実的な予測」だったという。

ベイリー氏の治療は、痛みとストレスの両方に満ちたものだった。

「治療の間中、意識はあった」とベイリー氏は述べた。「たくさんの注射を打たれた(中略)どんな時でも、私の腕には5つか6つの点滴が打たれていた。しばらくすると、身体はほとんど何も感じなくなってしまった」。

スクリパリ氏親子の1人は、隣の部屋で治療を受けていた。ベイリー氏によるとその部屋は、警察に守られていたという。

「上から下まで防護服に守られた看護師が、あなたにとサンドイッチを持って入ってきた時もあった」とベイリー巡査部長は語った。

しかしその後ろには、「ただ普通に入ってくるのを許された」ベイリー氏の妻と子供が、「すぐ後ろに」いたこともあった。

「とても混乱する出来事だった」

スクリパリ氏親子とベイリー氏がノビチョクに触れた正確な経緯を割り出す科学者らと警察の綿密な調査は、2週間がかかった。

最終的に、ノビチョクはスクリパリ氏宅の玄関ドアの取っ手に吹き付けられていたことがわかった。ベイリー氏は、このニュースは救いになったと語った。

マスクとゴーグル

肌に危険物が触れないよう防護用グローブをつけていたのに、なぜ神経剤がそれをすり抜けたのか、ベイリー刑事巡査部長はいまだに分からないという。

「わからない」とベイリー氏は話した。「スクリパリ氏宅で、フェイスマスクとゴーグルの位置を調整したかもしれない。神経剤が手に付いている状態で」。

神経剤の被害に遭ったのは、ベイリー刑事巡査部長とスクリパリ氏親子だけではなかった。

スタージェス氏とパートナーのチャーリー・ロウリー氏(45)は、英南部ウィルトシャー州アムズベリーでノビチョクに接触。スタージェスさんは被害にあった4カ月後の今年7月に死亡した。ロウリー氏は助かった。

「ドーン(・スタージェス氏)と家族のことは気の毒に思う。私は病院を退院できたが、悲しいことに、彼女はそうならなかったから」とベイリー巡査部長は話した。

スタージェス氏の悲劇的な死は、パズルを解く重要なピースを捜査当局に提供した。ロウリー氏は香水のボトルを見つけ、それをスタージェス氏に渡していたのだ。

人気ブランドの香水だと信じ込んだスタージェス氏は自分の手首にそれをいくらか吹き付けた。実際のところ、このボトルはノビチョクを英国にこっそり持ち込むのに使われたものだと、捜査当局は考えている。

捜査を主導するロンドン警視庁のディーン・ヘイドン副警視総監補は、おそらく「数千人」の殺害が可能な「大量の」神経剤がボトル内にあったと話した。

ヘイドン氏はパノラマに対し、「ボトルにあった神経剤の量と、スクリパリ氏の自宅にまいた手法は、完全に見境なしだ」と語った。

英政府はこの神経剤攻撃をロシアの責任としている。

ベイリー刑事巡査部長にとっては、受け入れなければならないことだという。

「乱暴で危険な実行法にも、私は怒りを覚えた。たくさんの人が影響を受けたかもしれないからだ」とベイリー氏は述べた。

精神的な傷

影響は、身体の健康だけにとどまらない。

「病院のおかげで、身体的にはだいぶよくなったと思う」とベイリー刑事巡査部長は述べた。2週間半で妻と共に病院を出られたのは「信じられない」事実だったとベイリー氏は話す。

しかし、ベイリー氏に残る精神的な傷は「別の厄介事」だという。

「説明するなら、感情的な葛藤だ」とベイリー氏は語った。「対処により長い時間がかかっているのは、ただ我々に起きたこと全てが理由だ。家を失ったばかりでなく、持っていたもの全てをなくした(中略)子供たちが持っていたもの全て。全て失った。車も。全てなくしたんだ」。


セルゲイ氏とユリアさんのスクリパリ氏親子も病院を退院したが、ベイリー刑事巡査部長は2人に一度も会っていないという。

これからに向けて、いくつかの懸念があるとベイリー巡査部長は言う。「神経剤が与えた影響の大きさについて考える瞬間もあるが、それは私にはどうにもできないことだ」。

「もう起きてしまったことだから、私は日々、ただあるがままを受け入れなければならない」

感情を抑えた声で、ベイリー氏はこう付け加えた。「世間の反応はとんでもないものになっている。皆さんにお礼を言えたらと思う」。

「そして家族に、あと妻にも。妻がしっかりとまとめてくれている」

(英語記事 Skripal poisoning: Policeman's family 'lost everything' because of Novichok

提供元:https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-46312944

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