2024年4月20日(土)

古都を感じる 奈良コレクション

2011年8月23日

 夏目雅子さんが骨髄性白血病でこの世を去ったのはその5年後、まだ27歳だった。

 治療薬の副作用で髪が抜けてしまい、本人も家族も精神的にひどく苦しむ。でも彼女はこんなふうに言ったそうだ。「髪の毛くらい、いいわ。私、三蔵法師のとき、とっても素敵だったのよ」。

 なぜ玄奘はインドへ旅立ったのか。

 お釈迦さまが説いた教え(仏教)は、お釈迦さまが亡くなると、整理され、編集され、経典にまとめられた。そして経典の言葉をどのように解釈すべきか、研究が徹底的に進められた。しかし、そうした方向性、つまり学者(学僧)にしかわからない仏教へ進んでいくのは、お釈迦さまの真意から遠ざかるのではないかという考えが生まれ、そのように考えた人々は、それまでにない内容の経典を、お釈迦さまが説いたものとして、新たにたくさん作り出した。

 仏教に関する書物(仏典)は大きく3つに分類できる。「経」「律」「論」である。「経」はお釈迦さまが説いた(とされる)もの。「律」は仏教教団のルール。そして「論」は論文。3つはそれぞれにまとめて蔵に収められ、3つともマスターした高僧を「三蔵」と呼ぶ。

玄奘が漢訳した大般若経(藤田美術館所蔵)
開催中の特別展「天竺へ~三蔵法師3万キロの旅」(奈良国立博物館)会場で。

 インドから中央アジアを経て、中国に仏教は伝わった。さまざまな仏典がばらばらに伝わり、中国語つまり漢字に翻訳されたが、インドと中国では精神的な風土が異なることもあって、正確には訳し切れないことも多かった。経典によって説かれている内容があまりにも違い、そして解釈もさまざまなので、勉強すればするほど、聡明であればあるほど、わけがわからなくなる状況が当時の中国の仏教界にはあった。

 玄奘はまさにそういう状況にいた。そして重要な仏典(たとえば『瑜伽師地論(ゆがしじろん)』)がまだ中国に伝わっていないことに気付く。それを学ばなければ本当のことはわからない。中国の仏教はいつまでも中途半端なものに過ぎず、人々の苦しみを救うこともできない。

 インドへ行こう。

 しかし、それは許されないことだった。当時の中国は隋から唐への移行期で、国の内外に乱れがあり、国外へ出ることが禁止されていたのである。玄奘は国法を破って旅立つ。そして「引き返せ」と命じる人に、玄奘はきっぱり告げた。「不東(ふとう/ひがしせず)」。インドから仏典を持ち帰る時までは東には向かわない。

 玄奘は、やせた赤馬に乗って、砂漠を行く。長さ800余里の莫賀延磧(ばくがえんせき)。「上に飛ぶ鳥なく、下に走る獣なし。また水草なし。このとき影を顧みるに唯一のみ」。玄奘の伝記『大慈恩寺三蔵法師伝』は玄奘の孤独な旅の様子をこう記している。

 このあと玄奘は西域の国々を経て、大雪山(ヒンドゥクシュ山脈)を越え、バーミヤンで巨大な大仏を拝し、ガンダーラに到った。そしてさらに北インドの各地をめぐり、中インドに入る。


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