この熱き人々

2018年12月25日

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吉永みち子 (よしながみちこ)

1950年、埼玉県生まれ。85年、『気がつけば騎手の女房』で大宅壮一ノンフィクション大賞を受賞。著書に『母と娘の40年戦争』(集英社文庫)、『怖いもの知らずの女たち』(山と溪谷社)、『試練は女のダイヤモンド』(ウェッジ)などがある。

 「驚いてくれましたか? フラワーボックスの力はサプライズです。人が見て驚いて、印象に残って、贈ってくれた人の顔が思い出に残る。もらった人の喜びが、今度は誰かに贈りたくなる気持ちを生む。フラワーボックスが続いているのはそのエレメント(要素)が入っているからだと思います。初めてこれを作ったのは18年前、このすぐ近くの骨董通りで初めて店を任された頃でした」

夢の足場を日本で築く

 18年前といえば2000年。デンマークの首都コペンハーゲンの郊外で生まれ育ったニコライが、なぜ遠い日本でフラワーアーティストとして大活躍するようになったのか。

 父の仕事は鉢植えの植物の卸業で、母がフローリストと、きわめて植物や花に近い環境で育ってはいたが、将来の自分の職業選択に悩む普通の若者だった。インターン制度で、コンピューター関係や装蹄師の仕事、フラワーショップで働いてみて、一番楽しかったフラワーショップで働く道を選んだという。国立ビジネスカレッジで生花店経営の国家ライセンスを取得し、初めて日本に来たのは1995年。19歳の時だった。

 「卒業旅行がメインの目的でしたが、仕事で何度も日本に来ていた父の伝手(つて)で、鉢物生産者の仕事も体験させてもらいました。アジアの国ということだけで、日本に対する固定観念はなかったですね。顔も風景も食べ物も何もかもすべて違って、不思議すぎて面白かった。埼玉県の羽生(はにゅう)という町で鉢物の勉強をしました。日本では花と言えば切り花ですが、デンマークは鉢物が主流なんです」

 そこで、1カ月鉢物の仕事をした後、切り花も経験したくなって、川越の生花店でも研修。日本ではブライダル需要が多いと知って、また一つ別の店にも通うハードな日々を2カ月続けて帰国。

 「1年くらいたったら、日本で経験した文化の違いやスピード感が面白かったと思うようになって、再び日本に来ました。今度はもう少し長く滞在するつもりだったけど、そのまま20年以上も日本で暮らすことになるとは思っていなかったですね」

 再来日したニコライは、研修先だった川越の会社に就職。その会社が南青山に新店舗をオープンする際、店を任されたのが2000年。自分のセンスを自由に反映させられる足場ができたわけで、日本で明確な一歩を踏み出したことになる。

 朝一番で生花市場に行き、店を掃除し、アレンジメントを作り、配達もすれば、レストランウエディングの装飾の出張もする。本当に朝から晩まで休みもなく働いたとその頃のことを振り返る。が、やりたいことが次から次へと生まれ、何より面白くてしょうがなかったから、働き詰めの毎日も疲れたけれど楽しかったという。

 「昔の日本人の働き方かもしれないけど、僕は『我慢する』という日本語は夢につながる努力のことだと思っているから、嫌いじゃないんです」

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