足立倫行のプレミアムエッセイ

2018年12月24日

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(fotohunter/Gettyimages)

 母が10月26日に亡くなったので、兄弟3人で相談して納骨日を12月6日に決めた。

 霊園の管理事務所で諸手続きを終えた後、私は最後に係員に言った。

 「作業される方がもう墓地に向かってるんですか? じゃあ、ご連絡をお願いします。我々の遺族の希望で、父の骨壺の中に母の遺骨を一緒に入れたいと、そうお伝えください」

 「ご遺骨をご夫婦一緒に埋葬、ですか?……少々お待ちください」

 係員は胸に「研修生」の札を付けていた。

 表情を緊張させ、後方の部屋へと小走りで急ぐ。自分では判断できずベテラン事務員の指示を仰ぐのは、この日何度目か。

 しばらくして席に戻ってきた。

 「大丈夫です。ご遺骨、一緒にできます」

 当然だと私は思った。遺族の希望であり、霊園側にも何の負担もないからだ。

 母は、死の前日まで元気だった8年前の父と違い、病院で徐々に穏やかに旅立った。

 最終的な死因は気管支肺炎ということになるが、施設から病院に運ばれた時点で口から食物を摂れなくなっていたので、93歳という年齢を考えると、点滴で40数日生命を延ばした末の「大往生」、と呼べるだろう(延命治療は生前から望んでいなかった)。

 最後まで苦痛の表情を見せることがなかったことも、心残りが少ない理由である。

 ただ一つ、気にかかったのが父との合葬。

 父の死後1~2年、母は実家で独りで暮らしていた。認知症を発症し、調理台のガスの不始末があったりして我々夫婦は頻繁に様子を見に行ったが、そのたびに驚いたことがある。

 布団の下や水屋の引き出しの中に大量の紙片があり、そこに短文が書かれていたのだ。

 「○○(父の名前)さま お慕い申しております」「○○さま とても淋しい」
……

 すべて亡父への追悼、というより恋情の句だった。私は長く両親を見てきて、母が父のことを「○○さま」と言うのを聞いたことがない。あからさまな愛情表現(言葉でも態度でも)に接したこともないので、困惑した。

 父の晩年、母は怒りっぽくなった父を冗談でうまくさばいていたので余計そう思った。

 ともあれ、父が亡くなってから、母の認知症状は急に本格化したような気がする。

 施設を退所するまでの数カ月、母は言葉数が減り、筆談で最低限の意思疎通をはかった。

 母の故郷、出身校、両親や姉弟の名前、友人の名前などに反応し、ペンを取って関連語を書いた。だが、最後まで間違わず書いたのは父の名前、そして必ず隣に自分の名前だった。

 夫婦仲が決して悪くない、むしろ良い方だと思っていたけれど(夫婦のことなので立ち入れず)、ここまで深く思い合っていた(特に母の方は)とは、子どもとしてもなかなか察知できなかった。 しかし気づいた以上、「愛しい○○さま」とは未来永劫添わせてあげたい。

 墓地に行くと、ウチの墓の前に作業員が立っており、墓石の前に父の名札の骨壺が置かれていた。

 「お世話になります。これが母の遺骨ですが、父の骨壺の中へ入りますよね?」

 「スペースがあれば入ります」

 私が母の骨壺を示すと、作業員は父の骨壺を開けた。ほぼ満杯だった。8年前の記憶の通りだったが、隙間はあった。

 骨を詰めて隙間を埋めれば母の骨も入る。だから母の骨壺を半分サイズにしたのだ。

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