“熱視線”ラグビーW杯2019の楽しみ方

2018年12月27日

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第1回W杯の記憶

開催国 ニュージーランド・オーストラリア
開催期間1987年5月22~6月20日
日本代表 監督 宮地 克実 主将林 敏之
日本代表はプールA 
「日本代表18-21アメリカ」
「日本代表7-60イングランド」
「日本代表23-42オーストラリア」

――組合せは初戦がアメリカ、第2戦がイングランド、中3日でプール最終戦、当時優勝候補と目されていたオーストラリア戦でした。

 第1回を振り返っていただいて一番残っている思い出は?

林:今振り返ればですが、ジャパンはあきらかな準備不足。どう戦うのか、どこでピークに持っていのか、ワールドカップを戦う方法がまるでわかっていなかった。

 初戦のアメリカとは1985年に秩父宮ラグビー場で「15-16」で敗れ、翌1986年にはロサンゼルスで対戦して「9-9」の同点。

 そのアメリカが相手ですから、勝ちたかったし、勝たねばならなかった。でも、3点差で落としてしまい、続くイングランドには大敗を喫したので、最終オーストラリア戦に向けたミーティングの席で熱く語りました。

 「2試合負けた。このままやったら日本に帰られへん! オーストラリアは優勝候補や! 世界最強のチームや! ええか、俺たちはそいつらに挑むんや! 最強のチームに俺たちの試合をするんや」みたいな内容だったと思います。不甲斐ないジャパンの姿を見せたまま帰れませんからね。とにかく熱く語って鼓舞したことが鮮明な記憶として残っています。

 みんなが熱い気持ちで日本代表を背負って試合に臨んだのですが、ジャパンとしては3戦目にしてやっと準備が整ったような状態でした。

 ジャパンらしいトライも生まれ、みんなよく戦ったと思います。最後には(点差が)開いたけれど、オーストラリア相手にジャパンは恥ずかしくない試合をして帰国することができました。

 試合後、みんながほっとしたような表情を浮かべていたことも印象に残っています。

 あの晩は飲んだね、どうやって部屋に帰ったのかも覚えていません。(笑)

――第2回W杯にも出場されていますが。

林:膝の怪我がひどくて一時期ジャパンから外れているんです。でも、なんとかもう一度やりたいということで必死にリハビリして社会人大会の決勝に間に合って優勝。その試合を観ていた当時の日本代表監督である故宿澤広朗さんに「フォワードリーダーとして戻って来てくれ」と声を掛けていただいてジャパンに復帰しました。

 第1回と違って宿澤ジャパンは第2回大会に向けて強化が進んでいました。その途中、1989年にスコットランド(秩父宮ラグビー場)を破ったこともその一つの表れです。

 ですが、ワールドカップではスコットランドとアイルランドに負けてジンバブエにだけ勝利をあげました。これが2015年の大会まで唯一日本代表の勝利となっていきました。

 下位同士の戦いだけどワールドカップという大舞台で勝ったことの意味は大きいです。

 個人的な思い出を言わせてもらえば、オックスフォード大に留学してケンブリッジ大との定期戦バーシティマッチに出場していたので、現地のメディアからは随分取材を受けました。現地では日本代表のニュースの半分以上が私の記事なのだけど、日本ではあまり注目されていないんですよね。

留学時代のバーシティマッチ(写真:Press Association/アフロ)

――強化は進んでいた一方、強豪国には勝てないという厳しい現実がありました。

林:やはりね、ワールドカップという大舞台は違うんですよ、どこの国もこの大会に懸けてくるわけだから。当時の日本は企業アマという独特のシステムの中でラグビーをやっていましたが、第2回大会を終え、このままじゃいつまでたっても世界の強豪には勝てないと感じました。

 それは海外のチームも同じでフルタイムでプレーする必要性をみんなが感じたはずで、そこからラグビーがアマチュアスポーツからプロを認めるオープン化という方向に向かっていったのだろうと考えられます。

 そういった意味では第2回大会がラグビーの分岐点だったのでしょう。あそこで世界の流れが大きく変わっていきました。

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