2024年4月20日(土)

ネット炎上のかけらを拾いに

2019年1月4日

都合よく「私たち」を使っていないか

 「強要、無視、減点」はそのとおりである。すでに述べたとおり、ここに言及するのは覚悟のある態度だと感じる。しかし「女であることの生きづらさが報道され、そのたびに、「女の時代」は遠ざかる。」から、急によくわからなくなる。

 女の生きづらさが報道されると、「女の時代」は遠ざかるのか。報道されず無視されていた時代よりは、まだマシではないのか。もしかして報道されなかった女性差別はないと思っている人がムービーを制作しているのか。そしてここから、さらに迷走する。意地悪くて申し訳ないが、一行ずつツッコミたい。

 「今年はいよいよ、時代が変わる。」

 根拠を希望する。

 「本当ですか。期待していいのでしょうか。」

 言い切ったことに保険をかけておくかのような問い返し作業。誰に期待するのか。もしかして男社会なのか。

 「活躍だ、進出だともてはやされるだけの「女の時代」なら、永久に来なくていいと私たちは思う。」

 「男社会」にもてはやされるだけの「女」ならいらないって意味であれば同意である。ただ、「女の権利を主張してもしょうがない」と言うために、都合よく「私たち」を使っていないか。

 「時代の中心に、男も女もない。」以降は急に、「個の時代(=わたし)讃歌」となる。映像では、安藤サクラに白いパイがぶつけられ、彼女は倒れる。ちなみに、このシーンで真っ先に思い出したのは、避妊クイズに間違えると粉をぶっかけられる女性の動画である(※参考:「粉をぶっかけられる女の横で、放っておかれる男の性」)。ちなみについでに言うが、通常、「わたしは、私」などとあえて主張する女は、それだけで古臭い価値観の方々から煙たがれるか小バカにされる。しかし、「女性差別はあるけれど、わたしは私」となると話は別である。一転して「わかってる女」になることができる。

パイなんていらねえよ、新春

 このムービーに欠如しているもの。あるいは徹底的に排除されたものは、怒りなのだと思う。怒りが排除され、「怒るな」の意が遠回しに込められている。

 「差別もあったけど、前向きに頑張ります」って態度がスマートかのように言わないでくれ。女ってだけで「強要、無視、減点」されたら、怒って当然じゃないか。「まあまあ、いったん座りましょう」ではなく、「いったん怒りましょう」でいいじゃない。

 でもやっぱり、世の中は女に怒らせない。「男とか女とか言うのやめましょ!」に持っていこうとする。自称中立派の定石である。「フェミニストって言葉もなくなればいいよね。ほら、個の時代だから! ワクワクするね!」と、足元の課題を解決せぬまま、百歩先の話をしようとする。

 散々「女だから」という理由で「男より劣る」社会で差別されてきた側に、「時代の中心に、男も女もない」と言わせる空恐ろしさ。大企業のトップに居座る男が土下座しながら「男も女もない」と言うなら、いや、「男とか女とかで差をつけてすみませんでした。男に下駄を脱がせます」と言うならわかる。実際は、パイをぶつけられながらも女が立ち上がり「男も女もない」と笑顔で言わされているのである。まじかよ2019年。

 せめて安藤サクラが既得権益を象徴するおっさんにパイを投げてほしかった。おっさんにパイをぶつけること、あるいは「強要、無視、減点」の責任の所在を明らかにしておっさんの機嫌を損ねることは、エッチな描写や#metooなんて目じゃない、日本社会最大のタブーなのかもしれない。ムービーの中には当たり前だが、財務省の福田前事務次官も「セクハラ罪はない」の人や「待機児童なんていない」の人も東京医大も土俵も、そのほか#metooされた方々も出てこない。パイを投げた彼らに対して、あなた「時代の中心に、男も女もないですよね」って言いますか? 「今なんでパイ投げたんですか」って聞かないか。まず。

 「男も女も関係ないってメッセージ、素敵やん。うちの妻もそう言ってる」などとまだ言っている人がいるのであれば言おう。パイを投げつけられた黒人が「時代の中心に黒人も白人もない」と笑う広告があったとしても、あなたは何も思わないか。今ある問題から目をそらせようとする圧力を感じない人は、とてもハッピーな頭をしている。

  
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