2024年4月20日(土)

迷走する日本の「働き方改革」への処方箋

2019年1月31日

「皆様のおかげ」と言わなければならない日本人

 会社というのは社会の縮図であり、日本企業も例に漏れず日本社会を如実に映し出す縮図になっている。日本社会のイデオロギーとは何か。社会人類学者の中根千枝氏がその名著『タテ社会の人間関係』(講談社現代新書)のなかでこう述べている――。

「……こうした日本的イデオロギーの底にあるものは、極端な、ある意味では素朴(プリミティブ)ともいえるような、人間平等主義(無差別悪平等ともいうものに通ずる、理性的立場からというよりは、感情的に要求されるもの)である。 これは西欧の伝統的な民主主義とは質的に異なるものであるが、日本人の好む民主主義とは、この人間平等主義に根ざしている」

「これは、すでに指摘した『能力差』を認めようとしない性向に密接に関係している。日本人は、たとえ、貧乏人でも、成功しない者でも、教育のない者でも(同等の能力をもっているということを前提としているから)、そうでない者と同等に扱われる権利があると信じこんでいる。そういう悪い状態にある者は、たまたま運が悪くて、恵まれなかったので、そうあるのであって、決して、自分の能力がないゆえではないと自他ともに認めなければいけないことになっている」

 だが、人間には能力差が存在している、という歴然たる事実がある。これが生来の不平等というならば、神の罪に帰結せざるを得なくなる。そもそも、不平等も格差も道徳観的な善悪には無縁であって、単なる「存在」にすぎないのである。しかし、能力差という事実を回避するために、格差を生む責任(罪)を何らかの外部要素に転嫁しなければならなくなる。その外部要素は政治だったり、社会だったり、企業だったり、あるいは法制度だったりする。

 能力差は何を意味するのか。能力差に善悪を規定することはまた何を意味するのか。結果論的にこの時代にそぐわない部分があることも、すでに悪果をもたらしていることも否定できない。ただし、日本社会に深く根ざした「能力差の認知回避現象」それ自体が歴史的文化的社会構造的次元から見れば必然的帰結であることは看過できない。農耕社会の出自をもつ日本では、能力差を明らかに認めることは、調和の毀損、ひいては社会の機能不全を引き起こす原因となるからだ。

 日本社会では、ある人がたとえ自分の能力で成功を収めた場合であっても、「皆様のおかげです」と言わなければならない。その原因はここにある。

能力主義の行き詰まり

 社会と同じ原理で、日本企業の内部においても「能力差」がタブー化されている。すると、能力に応じて行われる差異的処遇は「能力主義的差別」として断罪され、真の能力主義的人事制度や賃金制度も禁断の果実となる。結果的には企業内部においても「タテ社会」が出現し、年功序列ベースの人事が行われるのである。

 日本国内に起源するこの問題は、実は日本企業の海外経営現場で一層鮮明に映し出されている。外国人は日本社会の特徴や文化を本質的に理解していないし、理解しようともしない。能力差是認志向をもつ有能力人材は、日系企業に背を向けるようになり、たとえ入社したとしても2~3年ですぐ辞めてしまう。有能力人材である彼・彼女たちは能力差を明確に是認し、かつこれを評価し、賃金・待遇に反映させる人事制度を望んでいるからだ。

 その反面、相対的に能力の高くない人間は、ある意味で努力さえすれば、あるいは時と場所によっては努力しているふりさえすれば、温情的処遇を得られ、能力主義で社内競争の激しい欧米企業よりも日系企業のほうがはるかに居心地が良い。特に年長になり、年次を積み上げることによって得られる年功的利益がさらに大きい。一定の年齢を過ぎると、知識のアップデートが鈍化し、再就職の目処も立たないところで、日系企業はある種の天国になる。彼たちは絶対に会社を辞めないのだ。

 人間平等主義の日本社会で育った日本人にとって、「能力差」の存在を認知し、明言するほど辛いことはない。それはよく理解できる。このような日本社会を一朝一夕に革命的に変えようとしても失敗するだろうし、また変えるべきでもないと私は思う。たとえ変わったとしても、それは日本ではなくなるからだ。

連載:迷走する日本の「働き方改革」への処方箋

  
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