定年バックパッカー海外放浪記

2019年3月3日

»著者プロフィール
閉じる

高野凌 (たかの りょう)

定年バックパッカー

1953年生まれの62歳。横浜生まれ、神奈川県出身。大学卒業後は商社、メーカー勤務を経て2013年定年退職。2014年春から海外放浪生活を始める。放浪歴は地中海、韓国、インドシナ半島、インドネシア、サンチアゴ巡礼など。サラリーマン時代は主として海外業務に従事。ニューヨーク、テヘラン、北京にて海外駐在を経験。身長170センチ、57キロ。獅子座。A型。現在2人のご子息は独立し、夫人との2人暮らし。孫1人。

ナチスドイツはボスニアの救世主?

 第二次世界大戦においてもセルビア人はロシア(ソ連)についた。セルビア人の圧政に苦しんでいたボスニア人は対抗上ソ連と敵対するナチスドイツに接近した。

 ナチスドイツはボスニア人を優遇して同盟(alliance)を結んだ。ナチスドイツは武器を援助してボスニア人の若者はロシア(ソ連)と戦うために東部戦線(Eastern Front)に出征したという。

 亡くなったアレンの祖父の自慢話はナチスドイツの崩壊後にドイツ人の逃亡兵をかくまって保護したことだったという。素朴なボスニア人にとりナチスドイツは過酷なセルビア人支配からの“解放者”(liberator)であったのだ。

チトーはボスニア人を裏切った!

 第二次世界大戦の末期にチトーはボスニア・ヘルツェゴヴィナでも反ナチスドイツ闘争(パルチザン運動)を開始。彼はボスニア・ヘルツェゴヴィナの自主独立という甘言を弄して反ナチス闘争への参加を勧誘した。

 戦後ユーゴスラビア社会主義連邦が成立。アレンによるとチトー政権下でもセルビア人が支配階層となりボスニア人への差別は多かれ少なかれ存在した。ボスニア人はいくら優秀でも各分野の指導者になる道は実質的に閉ざされていたという。

ユーゴ紛争によるボスニア人の民族離散(diaspora)

 1990年から始まったユーゴスラビア社会主義連邦の解体の過程でセルビア人勢力による攻撃を逃れて膨大な数のボスニア人が国外に離散。

 アレンによるとトルコに逃れた難民は100万人以上となり、当時ボスニア難民の数はトルコ国内のクルド人よりも多かったとのこと。さらにドイツ、そして米国、カナダへも多数のボスニア人が移住した。

 混乱の収まった2013年の人口調査(census)ではボスニア・ヘルツェゴビナの総人口は約370万人であったとのこと。

 注)この国勢調査ではボスニア人(ボシュヤニク)が全体の54%であったので2013年時点のボスニア人の人口は約200万人と推計される。他方セルビア人は33%であり120万人程度となる。

ボスニア人にとりセルビアは不倶戴天の敵

 セルビアは歴史上常にロシアの先兵としてバルカン半島でdirty jobを担ってきたとアレンは強調。プーチン政権はセルビアへ最新鋭ミグ戦闘機を含む2億ドルの武器供与をコミットした。

 セルビアは現在も将来も常に危険な隣国であり、それゆえEUとNATOへの加盟がボスニア・ヘルツェゴヴィナの最重要政治課題であるとアレンは力説した。

悲劇の歴史の産物なのか、著名アーティストを輩出するボスニア

 アレンによると旧ユーゴスラビア社会主義連邦時代を含めて長年のセルビア人支配下でボスニア人に許されていた職業分野として歌手や役者などの芸人があった。こうした歴史的背景から現在でも著名なボスニア人アーティストが国境を越えて活躍しているという。

 セルビアの首都ベオグラードで人気を博しているのはボスニア人の歌手やバンドとのこと。TVのボスニア・ミュージック・チャネルはセルビアでも大人気らしい。映画でもボスニア人監督がオスカーを2回受賞。ベネチア映画祭、ベルリン映画祭でも最高賞を受賞したという。

 ボスニア人アーティストの活躍は、アレンの解説通りに歴史的差別の産物なのだろうか。

⇒第9回につづく

  
▲「WEDGE Infinity」の新着記事などをお届けしています。

関連記事

新着記事

»もっと見る