WEDGE REPORT

2010年12月20日

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 しかし、先に述べたように大阪や関西の工業生産シェアが、そのころすでにピークを超えていたのは皮肉なことである。シェアが低下したとしても生産額は伸びていたから、構造変化に気づくのが遅かったと評するのは酷かもしれないが、生産額自体も90年代から低下の一途をたどっている。工場等制限法、再配置促進法の廃止がそれぞれ02年、06年までかかったのは遅すぎたと言わざるを得ないだろう。

 「周辺に工場を拡張する余地がそれほどなかったことや地価の高騰などもあり、工場三法が大阪経済衰退の全ての要因とは言い切れないが、きっかけになったことは否めない」(平井氏)

 もっと踏み込んだ見方もある。長きにわたって関西の実情をつぶさに見てきた関西広域機構会長(関西電力相談役)の秋山喜久氏はこう語る。「大阪は工場三法によって工場流出が続いていたことに危機感を覚えていた。工場三法は、大阪都心部から郊外への工場移転を進めることが目的だったが、実際には、関西以外の地域や中国などの海外に移転してしまった。関西地域活性化のためには規制緩和は不可欠だった」。だが、大阪からの工場移転とそれによる税収増を期待する周辺の自治体の賛同が得られず、工場三法廃止に向けた足並みは揃わなかった。

 そして71年、大阪府政に転機が訪れる。「公害知事さんさようなら、憲法知事さんこんにちは」をスローガンに大阪知事選を戦った、憲法学者・黒田了一氏の登場である。日本共産党と日本社会党の支持を受けた黒田氏は、大阪万博の立役者、自民党推薦の現職・左藤義詮を破った。

 黒田知事は73年、ビッグプランという環境規制(汚染物質の総量規制)を打ち出した。すでに大阪市には二酸化硫黄などの独自基準があったため、他よりも何重にも厳しい地域となった。

 さらに「黒田知事は、工場等制限法を厳密に運用し、工場を追い出した。大学についても同様に、大阪市内の中心部にあった大学を市外に移転させた」(秋山氏)。この時の影響は現在にも及んでいる。事実、工場等制限法が同じように適用され、本社機能や人口が集中する大阪市と東京都の「学校基本調査」を見ると、大阪市に立地する大学は11校であるのに対して、東京都内には91の大学がある。学生数も圧倒的に少ない。09年度時点で東京都内には約47万人の学生がいるのに対し、大阪市の学生数は約2万8000人に留まる。「大阪では企業と大学との連携も不足している。若者を大阪市内に戻さなければベンチャー企業は育たない」と前出の秋山氏は嘆く。

大阪市の生活保護費 税収の約半分

 その後黒田府政は、老人医療無料化・府立高等学校増設など、低所得者層を重視した福祉政策に傾斜していく。環境規制も福祉政策も、それ自体が悪いということはない。しかし、経済との両立、税収とのバランスがなければ、決して良い政策とは言えないだろう。

 工場三法や革新知事は、東京にも存在した。しかし東京には、本社移転や人口流入、第3次産業の集積による膨大な税収があった。これは大阪にはないものであった。

 関西の財界も、産業構造の変化への対応は後手を踏んだ。69年に策定された「新全国総合開発計画(新全総)」に対し、大阪の側が強く主張したのは「二眼レフ論」だった。大阪商工会議所は「新全総に関する要望」として、「大阪を東京と並ぶ全国的な管理中枢地として位置づけ、東京・大阪集中型の編成とすべき」と建議した。

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