名門校、未来への学び

2019年5月7日

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鈴木隆祐 (すずき・りゅうすけ)

ジャーナリスト

1966年長野県生まれ。法政大学文学部在学中より出版社で雑誌編集を始め、その後フリーに。著書に『名門高校人脈』(光文社新書)、『名門高校 青春グルメ』(辰巳出版)ほか。

 ポニーキャニオン常務の水口昌彦さんは、フジテレビ時代、ディレクター・プロデューサーとしてバラエティ畑を歩んだ。中でもダウンタウンが司会を務めた、『HEY!HEY!HEY!MUSIC CHAMP』は1994年から2012年まで続いた、まさに平成を代表する音楽番組。同局では『夜のヒットスタジオ』(1968年〜90年)に次ぐ、ゴールデンタイムの長寿音楽番組となった。全745回中の最高視聴率は宇多田ヒカルが初登場し、99年6月21日に記録した28.5%。平成どころか前世紀の話だが、つい昨日のように思える。

京都府立嵯峨野高校

 水口さんは他にも、アイドルグループ「チェキッ娘」を生んだ『DAIBAッテキ!!』も担当。チェキッ娘は「元祖崖っぷちアイドル」としてバラエティで人気となった、タレントの熊切あさ美、その後は声優活動もする下川みくにらを輩出し、アイドル冬の時代に一陣の風を吹かせた。

水口昌彦さん

 また、『夕やけニャンニャン』ではADを務め、京大出ということから、おニャン子クラブの家庭教師役を任ぜられ、「マイケル水口」というニックネームで呼ばれ、番組にも担ぎ出された。そんな水口さん、高校時代からけっこう目立ちたがり屋だったのだ…。

 「10年くらい前に合同同窓会に顔を出したけど、校舎周りは変わってないですね。その時、(立憲)民主党の福山哲郎さんが『先輩、ようやくご挨拶できました』なんて話しかけてきて、彼も幹事長ですから偉くなりましたよ。嵯峨野出身というと、(それぞれ女優の)昔は松原千明さんと今では吉岡里帆さんだから、僕なんかの取材でいいんですか(笑)。

 こすもす科などと言って、今では嵯峨野もすっかり進学校になっちゃったけど、僕のいた頃は京大に行くのも学年で1人か2人。でも、僕らの代はけっこう頑張って、京大4人に東大1人と、『奇跡』と呼ばれましたね(笑)。

 嵯峨野は嵐山の風光明媚な環境にあって、元女子校のせいもあるのか、おっとりした大人しい校風。一方、僕の出身中学は映画『パッチギ』に出てくるのとそっくりに荒れてたもんで、空気が激変しましたね。高校は本当にのんびりしていて、『嵯峨野ボケになるよ』なんてみんな言っていた。京都も嵐山を境に、南と北では大違いなんです」

 さすがバラエティの演出出身だけに、話に澱みがない。しかし、水口さんのエンタメ志向は当時の頃からなのだろうか? 嵯峨野高校はまた、東映の太秦撮影所がすぐ近所だ。

 「漠然と映画監督になりたいと、高校の時は思ってましたね。京都なので子どもの頃は映画のロケにも遭遇しましたし、我が家の裏で撮影をしていて、若山富三郎さんが水を飲みに来たのを覚えています(笑)。なぜ監督かというと、現場で偉そうに指揮を執ってるのがカッコよく見えたんでしょうね。こんな作品を作りたいとか、ご大層なことじゃないです(笑)。でも見るのは邦画よりも洋画。小遣いもないし、映画館よりテレビの洋画劇場で観ることが多かったですね。

 でも、高校には映研がなく、2年で落研を立ち上げたんです。1年先輩の女子が3年生の時に誘われて、7〜8名でね。半分くらいは女子でした。桂枝三郎って文枝(元三枝)の三番弟子が、1年後輩にいますよ。当時は桂枝雀が理想でしたね。得意ネタは『崇徳院』(※)で、高座名は常盤屋露満寿(ロマンス)(笑)」

 それが3年になると、1年後輩と漫才をやってたんです。フジテレビの『笑ってる場合ですよ!』や『THE MANZAI』で漫才ブームの起きるちょっと前ですね。東京ではあまりピンと来ないでしょうが、関西には笑いのベースがあるんですよ。テレビで毎日のように新喜劇や寄席の番組もオンエアされている。僕もいわゆる吉本文化を吸って、身についても来た」

 不思議な符牒に打たれた。「Wedge」本誌では嵯峨野の狂言部に着目し、記事を展開している。そもそも狂言は能と違い、笑いに特化した庶民向けの古典芸能だ。京都はそうした大衆芸能の発祥の地でもあり、上岡龍太郎、島田紳介、木村祐一、宮川大輔、福田充徳といった、同じ芸人、漫才師でもスマートかクールな芸風の芸人が多い。

 「後輩とは大学になってもコンビを続け、それで(81年に)『笑ってる場合ですよ!』にも出たんです。そこでプロデューサーの横澤(彪)さんに『フジテレビに入れてください』と直訴し、一次に合格したら、なんとかしてあげるからと言われた(笑)。

 番組ではB&Bの島田洋七さんにはいじられましたね。『京大出たら、芸人はアカンで』って(笑)。横澤さんも東大出とはなにかで読んで知っていて、リスペクトしちゃってましたね。京大では工学部で電気工学を学んでいたので、82年に技術職採用でまず入社しました。電気工学部を専攻したのもテレビを意識してのことです。一般採用枠では敵が何千といますからね。ところが、技術は20人しか受けず、4人が採用された。一般より試験が早いので、フジに一発で受かっちゃったから、他は受けていません」

 この後輩とは後に関西大に進学し、長崎放送のアナウンサーとなる竹内淳。結成したコンビ名は「にっちもさっちも」といい、同番組内の「お笑い君こそスターだ!」において5日連続で勝ち抜き、11代目チャンピオンになった。その後、太田プロダクションからデビューの誘いも受けたが、二人は断り、それぞれ局の側の人間に。高学歴芸人も多い、今だったらどうだろうか…。

 「そして、配属されたのはなぜか編成部でした。テレビの全体が見渡せる部署です。その後、制作に回されました。制作部門は圧倒的に文系が多く、大抵ロジックより感性で番組を作る。水口は理系なので、よく冷たいと先輩に言われましたよ(笑)。

 元から理数科が得意。高校では物理は誰にも負けない自信がありましたね。仲はよかったけど、ライバル視していた、数学でどうしても勝てなかったヤツが東大の原子力工学科に行った(笑)。山田弘司といって、名古屋の核融合科学研究所の教授をしてますよ」

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