足立倫行のプレミアムエッセイ

2019年5月31日

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足立倫行 (あだち・のりゆき)

ノンフィクションライター

早大政経学部中退後、週刊誌記者などを経てノンフィクション作家に。近著に『血脈の日本古代史』(ベスト新書)『倭人伝、古事記の正体』(朝日新書)。

(LightFieldStudios/gettyimages)

 連休頃から娘が体調を崩し大学病院に入院しているので、私と妻は毎日のように面会のため病院に通っている。

 4人部屋の窓際のベッドである。

 1時間、2時間と付き添い、たまに窓の外を眺めると、向いの建物によって不自然に区切られた青空や曇り空が見える。

 その窓の外の景色や、入院中の家族の付き添いで大学病院にいるという状況が、私の脳裏にセピア色の記憶を蘇らせた。

 主に小学校低学年の頃、私は頻繁に米子市の鳥取大学病院を訪れていた。母方の叔母(母の妹)が長期入院していたからだ。

 本来なら、島根県安来市に祖父母の家があるので、祖父母に会うためなら安来に行くべきだが、祖母は病室に泊まり込みで叔母に付き添っており、安来の養護学校に勤務していた祖父も仕事以外の時間の多くを病室で過ごしていたので、必然的に米子通いとなった。

 叔母の病名は「膠原病」だった。しかし、私が通っていた頃、祖父母からはよく「原因不明の難病」と聞かされた。

 叔母はしばしば高熱を発し、全身の関節や筋肉、さまざまな箇所を痛がった。

 顔はむくんでいることもあれば痩せていることもあり、蒼白だったり、黄色かったり、普通の顔がどうだったのか、定かではない。

 その叔母は私にとても親切で、行くと必ず「よく来たね」と喜んでくれた。

 祖父母以上に私と話をしたがった。

 そんな思いに私は応えられただろうか?

 境港の私の家から米子の病院までは、バスで40~50分。車酔いがひどくバス嫌いな私が、苦痛に耐え一人で遠くの病院まで通ったのは、子どもなりの魂胆があったせいだ。

 祖父母の肩揉みや叔母の足揉みもそこそこにすませ、私は小遣いをせがんだ。

 10円玉を何枚か握りしめ、まず向かうのは病院の売店だ。お目当てはコーヒー牛乳。私の住む町では見かけないお洒落な飲み物だった。

 次いで、病院の外に出て表通りの貸本屋へ。

 昭和30(1955)年前後は全国的に貸本屋の最盛期だった。私の町にもあったが、大都会(と信じていた)米子市の店舗とは、本棚の規模が雲泥の差だった。

 私は時間をかけて厳選した2冊(平田弘史作品など)のマンガ本を抱いて帰り、叔母のベッドの端に座ってむさぼり読んだ。

 コーヒー牛乳とマンガ本、至福の時間である。

 ただ、そんな私を眺める祖父母の様子、態度にはいつも少し不自然さを感じた。

 祖母は、常に不機嫌そうだった。たまに冗談を言う時もあるのだが、たいがいはムッツリと押し黙り無表情だった。

 祖父の方はほとんど笑顔である。と言っても私と遊んでくれるわけではなく(時々映画館に連れて行ってくれたが)、大体は仕事や家族の用事に追われ忙しそうだった。

 一般の祖父母のことは知らないが、私から見ると2人とも喜怒哀楽が乏しい気がした。教育者(祖父は元小学校長、祖母は元教頭)のせいかと思ったが、何かを隔てる、薄い膜を感じていた。

 その理由がおぼろげながら理解できたのは私が30歳をすぎてからだ。

 私が19歳の時に祖父は68歳で、私が31歳の時に叔母が48歳で、それぞれ亡くなった。そして年老いた祖母を私の両親が引き取ることになり、祖父母の家の書類を私が預かった。

 その中に祖父の古いノートがあった。昭和29(1954)年に書かれ、題は「所感」。

 6歳の私が母に連れられて米子の病院に通い始めた頃のものだ。

 当時の状況を祖父は、次女(叔母)が「原因のわからない」「紫斑病の一種」に罹って3年目、この年4月には3男(T叔父)が同志社大学2年生になって「忽然死んでいった」と記す。T叔父は自殺だった。

 〈この二,三年の生活をみて人は私を気の毒だという。不幸つづきだという。よい人だのになぜあのようにつらい目にあわれるのかと皆であわれんで下さる〉

 T叔父の日記も私が預かり、自殺の原因についての思いはあるが、ここでは省略する。

 ともあれ、母から聞いたところでは、祖母は自慢の息子が突然自殺して以降、感情の起伏が乏しくなったのだった。

 祖父のノートによれば祖父も、叔母の難病に続くT叔父の自殺に衝撃を受けた。その結果、周囲の人々から同情を寄せられた。

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