山師の手帳~“いちびり”が日本を救う~

2019年6月4日

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天安門事件30年を前に、香港で行われた抗議デモ(AP/AFLO)

 30年前の1989年6月4日にたまたまレアメタルの仕事で北京に来ていました。北京では常宿の京倫飯店に泊まって居ました。

 天安門に民主化運動の学生が集結していたので、本社からは事態を重くみて帰国命令が出ていたけれども、飛行機の予約便は満杯で帰国することができませんでした。

 北京に駐在していた日系企業の社員は日航か全日空で帰国便を抑えていたようでした。

 僕が勤めていた中堅商社蝶理の社員も現地スタッフを北京に残してすでに我先にと帰国組は帰国していたので事務所には誰もいなくなっていました。

 1989年と言えば当時、僕が扱っていたレアメタルやレアアースのビジネスが活発でこんなチャンスに現場放棄する訳にはいかなかったのが実態でした。

 日本企業ではパナソニック(松下電器産業)だけは誰一人として帰国しなかったようでした。

 1989年はまだ日中貿易が隆々と伸びている時期でしたから日本企業は拡大方針に傾いていました。

 ちょうど1979年に本格的に中国が対外開放政策や地方分権化を進めて、そのちょうど10年後の1989年は中国経済にとってまだまだ伸び代のある時代でしたから、学生たちの民主化運動が天安門にまで押し寄せるとは誰も予想していませんでした。

 一方、胡耀邦主席は若い学生達に人気があったので、主席は共産党幹部からは目をつけられていたようです。

 ところが1989年4月8日の政治局会議で熱弁を振るった直後、心筋梗塞のため倒れ、一旦は意識を取り戻したものの2回目の発作を起こし、4月15日に死去してしまいました。

 その後、胡耀邦追悼と民主化を叫ぶ学生デモは激化していきました。

 予想外の展開でしたが、五・四運動の70周年記念日にあたる5月4日には北京の学生・市民10万人がデモと集会を行いそれが第二次天安門事件(第一次天安門事件は、1976年4月5日、周恩来の追悼に集まった市民との政府の衝突した事件を指す)へと発展していきました。

 ここで趙紫陽総書記も学生運動に同情的な発言を行ったことで、鄧小平ら長老たちは鎮圧路線を妨害するものとされて失脚させてしまいました。

 そんな背景から群衆は胡耀邦主席の死を悼み学生たちが中心となって追悼デモが行われたのです。

 集まった学生・市民は政治活動の自由を認めない鄧小平に対する怒りを爆発させ、騒乱状態となっていきました。胡耀邦に代わって総書記となっていた趙紫陽は学生の要求を聞こうとしましたが、暴動化した群衆を説得することはできず、ついに中国人民軍が出動し、暴動は鎮圧される流れとなりました。

 鄧小平は、事件を「動乱」ときめつけ、趙紫陽に学生運動を抑えられなかった責任をとらせ、辞任させました。

 これが第二次天安門事件であり、鄧小平の改革が経済の自由化に限ったものであり、政治の自由化は否定され、共産党一党独裁の元での改革開放という方向が明確になった歴史でした。

 その後は辞任した趙紫陽に代わって江沢民が総書記となり、鄧小平路線が継承されました。

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