名門校、未来への学び

2019年6月10日

»著者プロフィール
閉じる

鈴木隆祐 (すずき・りゅうすけ)

ジャーナリスト

1966年長野県生まれ。法政大学文学部在学中より出版社で雑誌編集を始め、その後フリーに。著書に『名門高校人脈』(光文社新書)、『名門高校 青春グルメ』(辰巳出版)ほか。

 宅配寿司「銀のさら」などを運営するライドオンエクスプレスグループ。同社の江見朗社長は社員教育において〝怒らない経営〟をモットーにしており、「銀のさら」「釜寅」などのグループの店舗数は700店を超えるなど事業は好調だ。江見社長は名門・岐阜高校を卒業後、同級生の中で唯一大学進学はせず、単身ロサンゼルスへ渡米。その後現地で寿司職人として過ごす経験などを経て、いまの仕事に至る。青春時代の経験が、今につながっているという。

江見朗さん(筆者撮影)

 今、どんな家庭の郵便受けにも宅配寿司の銀のさら、また釜めしの釜寅のメニューがポスティングされ、利用された読者も多いのではないか。和食でこれだけの規模のデリバリービジネスを築いた、ライドオンエクスプレスホールディングス社長で〝怒らない経営〟でも有名な江見朗さんに岐阜高校在校時について聞かせてほしい――と話を切り出すと、たまたま入学できただけだと、岐阜県が往時敷いていた学校群制度について語り出した。

 学校群制度は岐阜高のあった岐阜学区と、大垣北を筆頭校とする西濃学区で1974年から82年まで行われていた。むろん目的は、突出した進学校に学力の高い生徒が集中しないようにする配慮。東京をはじめとし、千葉や福井、岐阜とは隣り合わせの愛知や三重県でも導入していた制度だ。

 「当時の岐阜学区は5群まであってね、岐高(ぎこう)は学区内2番手の加納と組む5群と、長良高校と組む1群とあり、僕は本来なら長良に行くはずが、縦割りのシャッフルでそういう結果になったんです。だから、今回の取材も並み居る先輩をよそに、僕でよかったのかなと思って…(笑)。いるでしょ、経営者でも卒業生がけっこう?」

 確かに岐高からは最近でも、みずほ銀行会長の林信秀、トヨタファイナンシャルサービス社長の福留朗裕といった、経済界でも注目を集める諸氏を輩出。『ドクターX〜外科医・大門未知子〜』などで知られる脚本家の林誠人、フジテレビで『海猿』シリーズを成功させたプロデューサーの臼井裕詞ら、メディアで活躍するOBも多い。

 しかし、私としては江見さんが岐高のような進学校を卒業後、アルバイトで資金を貯め、アメリカに遊学したという経験に惹かれたのだ。いくら落第生といっても、江見さんが在校中の70年代後半でも、すでに大学進学率も相当高かったであろう岐高。その風潮にあえて背を向け、新天地を求めたのにも、高校での経験が大きかったのではないかと思ったのだ。

 「大学に行かなかったのは学年で唯一でしたね。当時、学校の『百年史』を編んでいて、その担当の先生にも言われましたよ。『100年通じてもお前ぐらいだ』って。後から調べると、まだいたんですけどね(笑)。周りは東大、京大に進む優秀なヤツらばっかりで、それは劣等感がありました。

 でもね、それでもわからなかったけど、クラスメイトに勉強を教えてもらったり(笑)、空手をやっていたから、クラスでできた仲間にパンを買いに行かせたりなんてしてると、ヒエラルキーが学歴だけでないこともわかってくる。環境が大事なんだとね。頭いい連中って、勉強はできるけど、意外といろんなことを知らないんです(笑)。

 部活はせずに帰宅組でした。中1から格闘技をやってたんで。空手に少林寺拳法…アメリカに渡った後も25歳までは続けてました。幼少の頃はひ弱でね。逆上がりも腕立て伏せもできず、小学校で友達に鉄棒を教わるうち、真っ暗になってしまい、捜索願が出されたこともありますよ(笑)。

 ぼくはブルース・リー世代。『燃えよドラゴン』以来夢中になって、たぶんブルース博士として、日本でも指折りじゃないかと思ってます(笑)。ブルースは単なるカンフー映画のスターじゃなく、人間の可能性にとことん挑んだ人で、いまだに崇拝してます。人種差別傾向の強いハリウッドに挑戦し、出世作の公開前に死んだ。ジェームズ・ディーンや赤木圭一郎を彷彿もさせるけど、自分しかできない表現を追求した、唯一無二の存在だと思っています」

 江見さんが中学入学時、1973年に公開されたのが『燃えよドラゴン』。これがリーの公式には最後の出演作だ(製作半ばで亡くなり、撮影済みのフィルムをなんとかつないだ『死亡遊戯』が78年に公開)。本国香港を除いては、死後にそれ以前の主演作が次々に公開されるという現象が起きた。

 私も幼心にあの熱狂を鮮烈に記憶している。玩具のヌンチャクをよく振り回しては、母に叱られたものだ。しばしブルース・リー談義が続いた。

 「人それぞれ、誰でもヒーローがいる。僕にはそれがブルースだった。僕はバックボーンとして、あまり家が豊かではなかったし、勉強もできなかった。それでも1日は1日しかないから、真剣になんとかしなきゃ—という気概だけは持ってたんですね。高校のクラスで5人くらい仲のいいヤツができ、空手にも興味を示すんで、一緒に道場に通うようになっていた。思えば、それが最初にリーダシップを執る経験だったんです。

 時代はちょっと後だけど、『ビー・バップ・ハイスクール』そのものですよ。当時の岐阜もあんなツッパってるヤツらが幅を利かせていた。岐高にも僅かにおったんですよ、そういうの(笑)。僕らもみんな太いズボン履いて、中には金髪のパンチにしたりするのもおってね。そんなんが東大や京大に行った(笑)。クラスが40人とすると、35VS6という感じで、異様に結束力が固かった。それが起業にも役立った気がしますよ」

 リーはそもそもアメリカに生まれ、すぐ香港に帰国。父は有名な俳優だったため、何不自由なく育つが、単身渡米し、苦学してワシントン大学哲学科に進んだ。老荘思想や禅にも通じ、独自の武道「截拳道」を生み出す。

関連記事

新着記事

»もっと見る