WEDGE REPORT

2019年6月10日

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樫山幸夫 (かしやま・ゆきお)

元産經新聞論説委員長

元産經新聞論説委員長。政治部で中曽根首相番、竹下幹事長番、霞クラブ(外務省)詰め、ワシントン特派員、同支局長、外信部次長、編集局次長、正論調査室長兼論説委員、産経新聞社監査役を歴任。2度のワシントン勤務時代は、ホワイトハウス、国務省などを担当、米国の内政、外交など幅広く取材した。

〝子供の使い〟にはならず?

 イラン側との話し合いで、首相が何を伝えるか。とりあえず、双方の主張をそれぞれに伝え、直接対話を促すことになろう。事態打開のために独自の調停案を提示することができれば理想的だが、イランとの核交渉にあたってきた「P5プラス1」(国連安全保障理事会常任理事国にドイツを加えたグループ)に日本は加わっておらず、期待薄だろう。「メッセンジャー外交」になるかもしれないが、米国とイランによる直接対話の窓口が閉ざされていることを考えれば、それだけでも重要な役割だ。子供の使いではないのだから、首相としても双方の主張を伝えるだけでなく、〝仲介者〟の資格を逸脱しない範囲で両者の間を調整、働きかけを行いたいところだろう。

 首相はイラン訪問について、いずれも同国と敵対するサウジアラビアのムハンマド皇太子、イスラエルのネタニヤフ首相らと事前に電話で日本の意図を説明、意見交換した。これらアラブ諸国、さらにはP5プラス1各国も、「お手並み拝見」と成否を注視している。

中曽根工作、人選ミスで挫折?

 34年前の日本の対イラン仲介工作とはどういうものだったのか。

 当時、政治部の〝中曽根番〟記者だった筆者は直接取材した。

 1985(昭和60)年6月、国際情勢、諜報合戦に詳しい作家・ジャーナリストの落合信彦氏のもとに、レーガン米大統領(当時)と親しい米国のビジネスマンから連絡があった。イスラム過激派組織「ヒズボラ」によってレバノンに拘束されている米国人の人質解放に、大統領と親しい中曽根首相の協力が得られないかーーという打診だった。

 落合氏は旧知の参院議員、秦野章氏(故人)を通じて首相サイドに連絡。中曽根氏も乗り気だったことからレーガン大統領が中曽根首相に電話、いきさつを説明、あらためて働きかけを要請した。大統領は、ヒズボラを支援しているのはイランであり、そのイランと日本が一貫して良好な関係にあることを念頭に、〝ロン・ヤス〟と言われるほど親しい中曽根氏に依頼すれば人質解放が実現すると期待したようだ。

 中曽根氏は、当時中東関係の団体トップで、駐仏大使もつとめた大物外交官OBを特使としてテヘランに派遣。ラフサンジャニ国会議長(当時)に人質解放を促す親書を手渡したが、先方は冷淡な態度に終始、仲介工作は失敗に終わった。このOBは当時、筆者の取材に対し、「ラフサンジャニ議長との会談の冒頭、親書を渡したが、議長は肩をすくめて不快そうだった。その後、議長の日本訪問などについて30分ほど話したが、話がはずまなかった」と証言。イラン側が、日本の仲介を快く感じていなかったことを明らかにした。

 仲介が失敗に終わったことについて落合氏は、中曽根氏側に人質解放が米国にとっていかに重要かという認識が薄かったこと、外交官OBなどではなく、先方と強く渡り合える大物を派遣しなかったことーーなどを指摘。

 何よりも世界的レベルで考えるメンタリティーが欠けていたと批判した。氏によると、レーガン大統領は、この結果に失望、貿易摩擦での米国の態度が厳しさを増したという。

 ラフサンジャニ議長はその後、中曽根親書の内容を暴露、外交的に〝背伸び〟する日本を揶揄したと筆者は記憶している。

 この工作については、人質がからむ機微な外交交渉であったことから真相が謎に包まれたままだが、成果をあげていたら、その後の日本外交は異なった姿になっていたかもしれないと悔やまれる。

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