明治の反知性主義が見た中国

2019年6月12日

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樋泉克夫 (ひずみ・かつお)

愛知県立大学名誉教授

中央大学法学部、香港中文大学新亜研究所、中央大学大学院博士後期課程を経て外務省専門調査員として在タイ日本国大使館勤務。著書に『華僑コネクション』『京劇と中国人』『華僑烈々―大中華圏を動かす覇者たち―』(以上、新潮社刊)など。

[著書]

清国は本当に「仏教国」だったのか?

 一行のうちの随員筆頭と思われる人物が「答清人問日本 無堂」と題する七言詩を残している。北京に入る以前の内陸部で「無智の頑民」から「日本とは如何なる國なりや」と尋ねられたことをキッカケに作ったに違いない。

 「青山重畳聳中天 千派清流注海辺 郷邑無人不知字 港湾到処好留船 軍営月落寂如水 僧院雲封閑入禪 莫恠祖龍遣徐福 蓬莱從來古神仙」

 ――天を衝く緑濃い山々が重なるように連なり、無数の清らかな流れが海に注いでいる。村人といえども文字を知らない者はいないし、何処の港にも船が舫っている。兵営は夜のとばりが下りると水を打ったように静まり、僧侶は僧門を閉じ謐かに禅を組む。その昔、祖龍(しこうてい)が徐福を遣わしたことを怪しむことはない。蓬莱(にほん)は古より神仙(かみさまのくに)だったのだから――読み下し文は省くとして、こんなことを言いたかったに違いない。

 だが、こう応えたとしても、「日本とは如何なる国なりや」との問いを発した「無智の頑民」が理解できたとは思えない。日本の自然や社会環境は彼らが日常的経験で理解・類推できる範囲の埒外にあったはずだから、山紫水明の地が地上に存在するなどと想像すらできなかっただろう。だいいち、彼が記した文字を読み取れたかどうか。それさえも疑問だ。

 因みに、ある統計によれば、「答清人問日本」から半世紀ほどがすぎた1949年の中華人民共和国建国時の識字率は20%だそうだ。ならば、19世紀末の識字率は20%を大幅に下回っていたと考えても強ち間違いなかろう。因みに2014年の識字率は90%とか。ということは、かの国では現在でも14億余のうちの10%――日本の人口を2千万人ほど上回る人々が文盲なのだ。であればこそ「中華文明の偉大な復興」、あるいは「中国の夢」といった類の大口を叩く前に、識字率100%を目指してくれたらいいのに。

 それはさておき、この七言詩から思い出されるのが、1972年9月に訪中した田中角栄が毛沢東に示した例の「国交途絶幾星霜 修好再開秋将到 隣人眼温吾人迎 北京空晴秋気深」である。この種の日本式漢詩が自家中毒・撞着気味の自己満足でしかないことに、日本人は気づくべきだ。それは、かりに中国人が和歌を詠んだとして、せいぜいが“もどき”の真似事の域から絶対に抜けられないと同じと思うからだ。やはり、言葉こそが国を支えていることに素直に深く思いを致すべきだろう。社稷とは言葉なのだから。

 さて、大谷法主の来訪が伝わるや、北京でも「在留邦人の来訪するもの続々絶へず」。一行が訪れた北京の名勝古跡などにつき詳細な記録が残されているが、敢えていうなら観光案内の域をでるものではない。だが一ヶ所だけ興味深い記述がみられる。

 郊外の「練兵場を過」ぎた際、「砲声轟々として絶江ず、或は云ふ訓練の将官多く舎宅に在りて安眠を貪り、親しく兵を閲する事稀に、唯砲声を聞て兵士の勤怠を推測す、是を以て兵士盛に空砲を放ち以て将官を欺くなりと、兵の腐敗一に此に至る歟」。これもまた彼らの生活の知恵。まあ、彼ら得意の“上に政策あれば、下に対策あり”の変形とも思えるが、将官と兵が共に国防に精勤するなどということは、やはりあり得なかったワケということになる。

 大谷法主の清国巡遊が浄土真宗本願寺派の中国大陸における布教活動にどのように生かされたのかを問うことは暫く措くが、清国を「又実に同一仏教を奉ずるの国」と見做したからこそ、仏教による清国の世直しを目指したはず。だが、果たして清国は仏教国だったのだろうか。

 なにやら日本人は昔も今も、大いなる幻影を相手にしているように思えてならない。

*文中の引用は、教學參議部『清國巡遊誌』(佛敎圖書出版 明治三十三年)に拠る。

連載:明治の反知性主義が見た中国

  
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