日本人秘書が明かす李登輝元総統の知られざる素顔

2019年7月30日

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早川友久 (はやかわ・ともひさ)

李登輝 元台湾総統 秘書

1977年栃木県足利市生まれで現在、台湾台北市在住。早稲田大学人間科学部卒業。大学卒業後は、金美齢事務所の秘書として活動。その後、台湾大学法律系(法学部)へ留学。台湾大学在学中に3度の李登輝訪日団スタッフを務めるなどして、メディア対応や撮影スタッフとして、李登輝チームの一員として活動。2012年より李登輝より指名を受け、李登輝総統事務所の秘書として働く。

李登輝さんご一家(後列右:李登輝元総統、後列左:兄・李登欽さん、前列右から、父・李金龍さん、祖父・李財生さん、母・江錦さん、兄嫁・奈津恵さんとその子供達(写真:筆者提供) 写真を拡大

 前々回、李登輝の子供たちのことについて書いた(参照:李登輝はなぜ、娘たちに日本語を学ばせなかったのか)。今回もその続きとして、李登輝の家族をテーマに書いてみたい。

 李登輝が子供たちに「何を勉強しなさい、どこの学校に行きなさい」といった強制をしたことは一度もなかった、ことはすでに述べた。では、こうした価値観、あるいは教育の方針がどのように形成されたかというと、李登輝自身がそのように育てられたからだという。

子供たちの自主性を尊重した李登輝の父

 父の李金龍さんは、日本統治時代は警察勤務であり、当時の本島人(台湾人)のなかでは「エリート層」に属するといえた。また、実家も裕福であったために、いわば地元の名士として、戦後は農協の理事長や、県議なども歴任するなど名の知られた人物であった。

 李登輝や、兄の李登欽(日本名は岩里武則)に対して愛情をそそぐ一方で、教育そのものについては何ら強制をすることはなかったという。兄の登欽は父親の跡を継いで警察官となった。弟の李登輝は台北高校在学中には「世界史の教師に」と夢を抱くが、当時の日本統治下では本島人が高等教育機関で教職につくことは不可能という現実があり、方向転換を余儀なくされた。

 そうしたなか、満州鉄道で勤務していた先輩から仕事の面白さを聞いたことや、新渡戸稲造の著書に出会ったこと、幼い頃から農民の苦しい生活ぶりを目の当たりにしていたことから農業経済学を志すようになった。結果、かつて新渡戸が教鞭をとった京都帝大を第一志望として内地留学を果たすのである。

 こうした兄弟の進路決定に、父は何ら反対することも強制することもなかったという。自分自身がそのように育てられたからこそ、李登輝も子供たちの自主性を尊重し、自由に進路を選ばせたのだろう。

李登輝とは似ても似つかない「小柄な父」

 父の李金龍さんは、李登輝が総統在任中の1995年に98歳で亡くなっているが、その4年前の91年に日本を旅行したときの写真を見たことがある。2007年6月に李登輝が念願の「おくのほそ道」散策の一環で、栃木県の日光を訪れたときのことだ。歓迎会場となったレストランに「李金龍先生 日光訪問」と題されたパネルに写真が飾られていたのだ。

写真:筆者提供

 このときの李登輝の挨拶を印象深く覚えている。父親を引き合いに出し、「日光に寄らずして帰ることは、私の心が許さない。親父が日光を訪れた時は90歳を過ぎていた。私はまだ90歳になっておりませんよ。まだまだ歩けます!また来ます!」などと力強く語り、万雷の拍手を浴びたのだ。

 写真を見ても分かるように、李登輝の父はずいぶんと小柄な人だった。そのため「山から伐りだしたばかりの大木に粗っぽく目鼻を彫ったよう」と『台湾紀行』で司馬遼太郎に形容された180センチを超える李登輝とは似ても似つかない。そのため、反李登輝派からは「李登輝の本当の父親は日本人である。だから日本びいきなのだ」などとしょっちゅうデマを飛ばされている。ただ、李登輝自身は「父は確かに小さかったが、母親は背が高かった。私は母親に似たんだ」と言う。戦後まもなく病死した母親だったが、確かに当時としては、かなり背の高い女性だったようだ。

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