明治の反知性主義が見た中国

2019年8月7日

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樋泉克夫 (ひずみ・かつお)

愛知県立大学名誉教授

中央大学法学部、香港中文大学新亜研究所、中央大学大学院博士後期課程を経て外務省専門調査員として在タイ日本国大使館勤務。著書に『華僑コネクション』『京劇と中国人』『華僑烈々―大中華圏を動かす覇者たち―』(以上、新潮社刊)など。

[著書]
ラオカイ付近にあるSAPA村。現在では観光地となり、少数民族の衣装が土産物として売られている(phanthit/gettyimages)

 青森県七戸に生まれた米内山庸夫(明治21=1888年~昭和44=1969年)は、辛亥革命勃発(1911年)の1年前に当たる「明治四十三年七月、上海より行を起こし、香港、海防を経て雲南に入り、さらに北して四川に出で、それより揚子江を下つて、十一月に上海に帰つた。その間、海防から雲南省城の昆明までは滇越鉄道に依り、昆明から四川省城の成都までは自ら歩い」た。若干22歳。上海の東亜同文書院卒業前後だったと思われる。 

 米内山はラオカイでフランス領を離れ、河口で清国に足を踏み入れた。彼が利用した路線は「(フランスが)支那から雲南線敷設の権利を得て、(べトナム北部領内の)東京線を雲南省城まで延長することを計画し、一千九百一年、滇越鉄道会社を組織して雲南鉄道を敷設せしめ」たもの。米内山が旅したのは竣工から10年ほど後のことだ。

 19世紀も終わりに近づく頃、清国攻略ルートとして雲南省に着目したイギリスは英領ビルマを拠点に西から、フランスは仏領ベトナムを足場に東から動き出す。滇越鉄道雲南線でフランスが先んじ、対するイギリスは遂に鉄道での昆明入りを果たせなかった。

 この路線は「海拔二百九十五呎の河口から、雲南まで四百六十五粁の間に、海拔六千四百呎に上るといふ山また山を溪谷を沿ふて登つて行く極めて難工事であつた。この鉄道は狭軌で、その枕木及び電柱等はすべて鉄材を用ひてゐる。一度この鉄道を通つて見ると、それがいかに難工事であつたかといふことが分る。それと同時に、よくもかくの如き鹿も通らぬやうな山嶽を、山を登り巖を穿ちて鉄道を通したものと驚歎せざるを得ない」と。

 これから米内山が向かおうとする中国西南部は、「ゾミア」と呼ぶ広大な地域に含まれる。

 「『ゾミア』とは、ベトナムの中央高原からインドの北東部にかけて広がり、東南アジア大陸部の五カ国(ベトナム、カンボジア、ラオス、タイ、ビルマ)と中国の四省(雲南、貴州、広西、四川)を含む広大な丘陵地帯を指す新名称であ」り、「およそ標高三〇〇メートル以上にあるこの地域全体は、面積にして二五〇万平方キロメートルにおよぶ。約一億の少数民族の人々が住み、言語的にも民族的にも目もくらむほど多様である」

 「東南アジア大陸部の山塊(マシフ)とも呼ばれてきたこの地域は、いかなる国家の中心になることもなく、九つの国家の辺境に位置し、東南アジア、東アジア、南アジアといった通例の地域区分にも当てはまらない。とくに興味深いのはこの地域の生態学的多様性であり、その多様性と国家形成との相互関係である」

 以上は『ゾミア 脱国家の世界史』(J・C・スコット みすず書房 2013年)からの引用だが、この地域は「通例の地域区分にも当てはまら」ず、「生態学的多様性」に富み、1億余の人口を擁しながらも、最近までは「いかなる国家の中心になることもな」かった。

 歴史を振り返ると、漢族はゾミアに向って南下を続け、先住少数民族を時に漢化し、時に駆逐することで、自らの生活空間を拡大させてきた。漢族による“熱帯への進軍”である。だが19世紀後半になり清国の弱体化が一層進むや、イギリスとフランスの両国がゾミア域内に築いた植民地――イギリスはビルマ、フランスはべトナム――を拠点に北上し、ゾミア北部に位置する雲南、四川、貴州、広西など中国西南部の略取を狙いはじめた。

 木のない「山また山の間を隧道をくゞりくゞりながら進んで行く」。「隧道は頗る多く」、また「隧道のほかに切通は無数にあつた。これに依つて見ても、この鉄道の建設がいかに困難であつたかゞ想像せられた」。それほどまでしてイギリスに先んじて清国利権を手にしたかった。フランスの凄まじいまでの執念だ。

 「かうして汽車は溪谷を渡り山腹を廻りめぐつて登つて行く。だんだん高くなり、車窓に白雲去來してゐた」。やがて最初の目的地である蒙自へ。

 雲南省の地図を眺めると、南部のミャンマー、ラオス、ベトナムとの国境一帯に孟甲、孟連、勐海、大勐龍、蒙自など、「孟」「勐」「蒙」などの漢字を冠した地名が多く見られる。これら漢字は声調は異なるもmengで表記される音を持つ。タイ語で小さくは集落、大きくはクニを表すmuangが転じて漢字音のmeng。「孟」「勐」「蒙」を冠する地は、かつてタイ族が居住していた土地であり、南下を繰り返す漢族の手で消滅させられ、あるいは奪われてしまった土地であることを示している。

 少数民族を呑み込んで進む漢族肥大化の痕跡である「孟」「勐」「蒙」が冠された地名には、少数民族の悲哀が影を落とす。

 いよいよ蒙自着。

 「蒙自で目立つことは、何といつても仏蘭西の勢力で、支那の海関の税務司も仏蘭西人であり、外国人としては仏蘭西人が一番多く」、街を囲む城壁の東側は「仏蘭西の居留地になつて居り、仏蘭西の領事館を初め仏郵便局、学校、病院」があった。ギリシャ人経営の店舗もあるが、やはり「支那語の上手な仏蘭西人が多」かった。蒙自は「思いのほか小さい町」ではあるが、雲南攻略のためにフランスが築いた橋頭堡だったに違いない。

 ところが、そんな蒙自に2人の日本人――日本雑貨を売る和田輝吉と鳥獣採集のために帝国大学理学部から出張中の折居――が住んでいたというから驚きだ。

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