補講 北朝鮮入門

2019年8月14日

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澤田克己 (さわだ・かつみ)

毎日新聞記者、元ソウル支局長

1967年埼玉県生まれ。慶応義塾大法学部卒、91年毎日新聞入社。99~04年ソウル、05~09年ジュネーブに勤務し、11~15年ソウル支局。15~18年論説委員(朝鮮半島担当)。18年4月から外信部長。著書に『「脱日」する韓国』(06年、ユビキタスタジオ)、『韓国「反日」の真相』(15年、文春新書、アジア・太平洋賞特別賞)、『韓国新大統領 文在寅とは何者か』(17年、祥伝社)、『新版 北朝鮮入門』(17年、東洋経済新報社、礒﨑敦仁慶応義塾大准教授との共著)など。訳書に『天国の国境を越える』(13年、東洋経済新報社)。

子どもを病人に仕立てて海外へ連れて行く外交官たち

 1988年の入省から2016年に亡命するまで在籍した外務省事情の紹介は、当事者ならではのものだ。特に、平壌に事実上の人質として子供を置いていくことを巡る外交官たちの葛藤は深い。

 太氏が駐英大使館の参事官となったのは2004年で、長男は14歳、次男が7歳だった。本来は1人しか連れていけなかったが、なんとか2人連れて行くことに成功した。本書では自身のケースについては説明を避けているが、一般論としては「健康な子どもを病人に仕立てることもある。医科大学病院のような権威ある病院から虚偽の病歴書をつくってもらえばいい」と紹介している。外国に帯同した後でも一定の年齢になると子どもを帰国させろという命令が来るので、この時にも仮病がよく使われるのだという。

 子どもを帯同できないことへの不満が強くなってきたのは1990年代初め。それまでは「海外勤務中の外交官の子どもの世話や教育をしてくれる南浦革命学院が健在だった」からよかったが、経済難の中で学院の運営状況が厳しくなってきたことが背景にある。さらに「海外で外国語を学んだ子どもが容易に平壌外国語学院に編入できるシステムが整うと、(子どもを帯同しようとする)その熱意はさらに高まった」のだという。

 2008年に帰国した太氏は2013年に再び駐英大使館に今度は公使として赴任した。大学生の長男は平壌に残していくことになり、次男も「原則的には」帯同を許されないはずだったが、「なんとか解決」して一緒に赴任した。

 ここで太氏には願ってもない状況変化が平壌で起きた。優秀な若い人材を育てるために若者を外国に留学させろと金正恩氏が号令をかけたものの、資金がなくて国内から出せなかったのだ。そこで正恩氏は2014年になって「2人でも3人でもかまわないから、外交官の子の大学生を留学させて人材を育てなさいという指示を下した」のだ。太氏は「外交官たちは熱狂的に歓迎してこれに応じた。私もとてもうれしかった」と述べている。

 自身が留学を経験しているだけに、正恩氏は柔軟な発想を持つ若手を育てたいと思ったのだろう。政府の資金が足りないのであれば、個人的な統治資金から出すという選択肢もあったはずだが、それはしなかった。そのことが太氏にとってはラッキーだったと言えるのだろう。

「食糧援助を受けねば」と金正日に進言した李洙墉

 北朝鮮の対外政策のキーマンといえる李洙墉・朝鮮労働党副委員長のエピソードも興味深い。太氏が外務省ヨーロッパ局の若手職員だった1994年のことだ。北朝鮮はこの年、金日成死去という激動に見舞われた。さらに冷戦終結にともなう旧東側諸国からの援助急減に加え、天候不順もあって食糧事情が一気に悪化していた。

 それでも「誰も金正日に国際社会に食糧援助を求めるべきだと申し入れることができなかった」。その時に李氏が金正日氏に進言する役を買って出たのだという。李氏は当時、駐スイス大使だった。前年からスイス・ベルンに留学した正日氏の息子、正哲氏の面倒を見ていたことも難しい役を引き受けた背景にあるのかもしれない。

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