2024年4月25日(木)

経済の常識 VS 政策の非常識

2012年2月10日

福島の声を
なぜ増幅できなかった

 ただし、もっとも真剣にならざるを得ない地元が気付かなかった訳ではない。

 福島県は、2011年5月、公共工事を進める際に使う建設資材の放射線量に関する基準がないことから「政府の原子力災害現地対策本部を通じて国に早急に基準を提示するよう求めた。しかし、いまだ基準は示されていない」と批難している。

 それに対して、原子力災害現地対策本部は「県からの要望を受けたかどうか確認している」としており、その有無さえも現段階で把握していないという(福島民報2012年1月17日)。

 福島県は気がついた。しかし、国は動かなかった。

 国の担当者にしてみれば、そんなものの基準があるはずはないし、どうやって基準を作ったら良いかも分からないし、基準を作ったら作ったで、これで良いのか紛糾する。

 何もしなくても大丈夫かもしれないしないし、後になって紛糾するかもしれない。その頃になれば、自分はその地位にいないかもしれない。どうせ紛糾するなら、今紛糾するより、先になって紛糾した方がマシだと考えたのかもしれない。また、薄められて人体に影響がない程度で終わると考えたのかもしれない。

 福島県の声を、政府は聞かなかった。その声は、マスコミを通じても増幅されなかった。福島県が、マスコミを通じて増幅しようとしなかったのかもしれないが、マスコミもその声を増幅できなかった。

 なぜ増幅できなかったかと言えば、日本には、すべてにわたって、同じ問題が他にもあるのではないかと感じる想像力が欠如していたからではないだろうか。日本には、この感覚がないから、想定外の事態に対処する力が欠如することになるのではないか。

 さらに、不作為の罪が軽く、作為の罪が重いという問題もある。役人バッシングの大好きなマスコミも、この件ではあまり役人を非難していないように思える。もし、役人が汚染砂利の基準を作れば、おそらくうまくは作れないだろうから、何もしなかったよりもバッシングを受けていた可能性もある。

 うまくできなくても問題を解決しようとした役人には寛容に、何もしなかった役人には厳しくする必要もあるのではないか。
 


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